ドイツ日記に戻る
ドイツからの便り(1)に戻る

ドイツの「自由」な学校と「学力問題」

−−ドイツからの便り2−−

ある夜の父母会

 「うちの娘は家で全然勉強しないし、英語とか少しもできるようになっていません。このままでアビトゥア(大学入学資格)を取得できるのでしょうか?私は心配です。」  私の長女が編入したクラスのある夜の父母会。あるお母さんのこの問題提起は大きな波紋を呼びました。

 父母会が夜八時から十時頃に開かれる点、数日後に父母会議事録が回付されてきた点などは違うものの、こうした親の心配自体には彼我の違いはないようですが、問題はもう少し複雑です。長女の言によれば「この学校はちょっとおかしい」からです。

 長女が受け入れていただいたのは、子安美智子さんの『ミュンヘンの小学生』(中公新書)で広く知られるようになった、成績評価や試験と無縁の「自由な」学校、自由ヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)です。自由ヴァルドルフ学校はドイツの公教育制度の中で「オルタナティブ」つまり「違ったいき方」の学校と呼ばれるユニークな私立学校の代表的なものです。日本でシュタイナー教育はしばしば「あこがれ」に似たまなざしで語られますが、今回は具体的な授業の様子の一端を紹介し、その上で少し批判的な観点からこの「学力問題」を考えてみたいと思います。

ユニークな時間割

 自由ヴァルドルフ学校は十三年間一貫制です。そのうち初めの八年間、つまり小学校一年から第八学年までは一人の先生が持ち上がりで担任します。

 授業に関しての最大の特色は、そのユニークな時間割編成にあります。図に掲げたのは日本の中一に相当する長女のクラス、第七学年a組の時間割です。毎日一、二時間目を通して置かれている「主要な授業」は三週間ないし四週間、ひとつのテーマを重点的に学び続けるもので、「エポック」とも呼ばれます。たとえば長女の場合、新学期最初のエポックは「遠近法」でした。美術史のようでもあり、作図法の実技のようでもあるこの授業が毎朝二時限、四週間続きました。その次のエポックは「発見者たち」。新航路、新大陸の発見を、「発見者たち」の個人的な生育歴や当時の社会における結婚や就職などの具体的なエピソードをまじえ、あるいは航海日誌を一日一日読み進めていくような形で四週間、学び続けます。そのエポックが終わると、それに関係した教科の授業はしばらくありません。「よく学ぶためにはよく忘れることが大切だ」というのです。

 私はある日の「発見者たち」の授業を参観することができました。授業の進め方もユニークでした。先生がおもむろにその日の「物語」を語り始めます。生徒たちはかなりざわつきながら、そして何人かは熱心に、その「物語」を聞いています。ノートを取るなどという作業は御法度、集中を妨げるから、というのです。ちなみに授業風景の写真撮影も厳禁で、私は注意を受けてしまいました。区切りのいいところまで進んだら、先生が今聞いた話のあらましを言うように求めます。活発に手が上がり、ある生徒は長く詳しく、またある生徒はほんの二言三言、語ります。お互いの発言への質問や補足も混じります。授業の後半は、オランダの一人の貿易商人についての今日のストーリーを自分のノートにまとめ、その隣にストーリーに即した絵を描くことにあてられていました。こうして四週間後には、「発見者たち」と題する挿し絵入りの自分だけのオリジナルな「教科書」が完成するというわけです。

手工・木工・園芸、そして「その他の授業」

 自由ヴァルドルフ学校のカリキュラムの中で大きな意義を与えられているのが「手工・木工・園芸」と外国語です。紙幅の都合で外国語についてはここでは触れません。手工・木工・園芸の時間にはクラスは三つに分割されます。自由ヴァルドルフ学校では通常のドイツの学校に比べるとクラスの規模が大きく、三十五人を上回っていますが、「主要な授業」以外の多くの教科では、クラスが分割されます。

 わが長女の場合、手工では自分のデザインで靴作り、木工では木のブロックを削って丸めて磨いてムール貝のような形のもの(ころがして遊ぶおもちゃだそうです)を作って、いまはノミを使ってボウルを作っています。園芸では温室や畑で季節ごとの作業です。ときおり収穫の「おすそわけ」があり、トマトや焼きジャガイモを持って帰ってきます。

 さて時間割には理科、地理、歴史といった教科名がありません。それらは前述のエポック方式でまとめてやるためです。ドイツ語と数学は「その他の授業」という名称で提供されています。時間割の用語法においては「主要教科」の概念が日本とは正反対になっていえるでしょう。

「自由な教育」の代償

 自由ヴァルドルフ学校は学ばない子どもたちのための避難所ではない、といわれることがあります。一見ゆるみきったような校内の空気の中でも、教師の権威が本来の意味で保持されていることを、長女の話を聞きながらしばしば感じます。学校生活は一貫した哲学に基づいて構成され、生徒たちはユニークなプロセスの中で「何か」を確実に学んでいるようです。

 自由ヴァルドルフ学校にも宿題はあります。冒頭のお母さんの問題提起は、宿題をやってこない生徒が増えているという先生からの報告に触発されたものでした。自由ヴァルドルフ学校から大学へ進学するには、もちろん他の一般の学校と同じ基準でアビトゥアに合格しなければなりません。親にとって、シュタイナー教育のやり方には賛同して学校を選んだものの、他方で十分な学力保障も気になるところなのでしょう。

 長女の観察によれば、道具的技能(言語、算術など)においては確かに相当に大きな個人差があるようです。数字による成績評定がなく、定期的な学力考査もない学校生活の中では道具的技能の定着は相当程度、個人的な達成意欲に依存することにならざるをえません。

 自由ヴァルドルフ学校では、第十三学年をアビトゥア(大学入学資格)の準備学習を集中的に行う学年と位置づけています。それはシュタイナー教育と既存の学校制度の間の調整弁のような役割を果たしています。先生方にとっては、そこには葛藤は存在しないようでした。「確かに今は第十学年以後の学習のための基礎を作る重要な時期ですが、私たちはこれまでこのやり方で多くの子どもたちを育ててきましたし、このクラスもこのやり方で間違いありません」とにこやかに語る姿は、シュタイナー教育への確信を感じさせるものでした。

 生徒の個性にあわせて担任の先生が選んでくれた詩篇を一人ずつ暗誦することから自由ヴァルドルフ学校の一日は始まります。二ヶ月が過ぎた頃、先生は故郷を離れて生きることをモチーフにした詩篇を長女のために選んで下さいました。そんな「ちょっと素敵な」教育は、少なくとも伝統的な学力の尺度においてみる限り、やはりそれなりの「代償」を必要とするのではないでしょうか? 日本でも現在様々な教育のオルタナティブが模索されていますが、この点ではやはり彼我の間には違いはないのではないか。今の私にはそんなふうに思われます。

ページの先頭へ戻る