ドイツ日記
この「ドイツ日記」は2001〜2002年に家族ともどもドイツ・フランクフルトへ海外研修に行かせていただいたときにリアルタイムでつくっていたものを一部整序して再録したものです。今から思えばあれれこれはちょっと認識が誤っているかも、ドイツ語の理解が違うかも、と思うところもありますが、記録としてそのままにしてあります。
日記の表面には現れていない多くの出来事がありました。今思えば、これまでの人生の中の宝石のような一年間でした。
ご用とお急ぎでない皆さんは、どうぞご笑覧下さい。
なお、各ページとも、日付の流れは「下から上」になっています。今回の再録にあたって直そうかとも思いましたが、ちょっと大変そうなので断念。下から、読んで下さい。
8月のドイツ日記
アンモナイト?(8月第4週)
僕らの住んでいるのは築20年ほどのマンション。100世帯ほどが住んでいて、入り口が4つほどあり、それぞれにエレベーターがついている、7階建てほどのもの。オートロック(というか、ドイツにはオートロックでない建物はほとんどありえない)、地下駐車場、専用の芝生の遊び場(結構広い)などあり。それはさておき、この写真をみていただきたい。うちの部屋を出たところの大理石の床の写真。中央は大きさの比較のために置いた腕時計。その左右のうずまき風のもの、これはもしかしたらアンモナイトの化石ではないか? 三越だか伊勢丹だかの階段にもっとちっちゃいのがあって、説明のプレートがついていたような気がするんだけど。ほかにも小さな貝や虫みたいなものが大理石の中にうじゃうじゃ入っているんだけど、たぶんこちらではそんなもの貴重でもなんでもないんだろうな。
学校のこと(8月第3週つづき)
なんとなく知ってはいたけど、へぇほんとなんだ、と思ういくつかのこと。
<教室にはカギをかける>
朝8時から学校は始まるけど、それより早く行っても教室は開いていない。カギがかかっていて、担任の先生があけるまでは入れない。授業が終わって休み時間になると、ほんとうに先生が教室から子どもを追い出して、またカギをかける。教室の中に居残っていてはいけないのだ。<勤務時間は授業時間>
授業は午前中で終わり(何日か、午後に宗教とか任意の音楽があるけど、長男はとっていない)。だいたい12時には家に帰ってくる。子どもたちが学校を出るころ、先生も帰宅するみたい。特別に何かない限り、午後は先生は学校にいないみたいだ。<暑いと休み>
掲示板に変な掲示を見つけた。市の教育委員会みたいなところのちょっと古い指示で、午前11時に教室の温度が25度を越えたら、午後の授業はカットしてよい、とかいったことが書いてある。長男のクラスは午後の授業がないので関係ないんだけど、実際に長女の学校では8月中に何回も突然の早帰りがあったのだ。25度、は35度のまちがいではなくて、本当に25度。<先生が休むと、休講>
長男の小学校では、まだこの経験がない。でも長女の自由ヴァルドルフ学校では、先生がお休みだからという理由である授業がなしになって、早帰りになるということがあった。(ただし自由ヴァルドルフ学校では、たいていは誰かほかの人の授業と振り替えるなどするようだ。それでもどうにもならないとき、ということなのだろう。)両親とも働いている家庭が多いのに、突然生徒を帰宅させるなんて問題だ、という指摘はずっと前からあるものの、現実には帰してしまうのだ。上に書いた「暑帰り」のときも問題は同じだけど。
クラスフェスト(8月第3週つづき)
長男の公立学校、はじめは妙によそよそしい感じに思えたものの、しだいにそうでもないかな、と思い始めた。ドイツ語のできない子どもだけの特別な授業も週に4、5時間あって、少し安心。いわゆる抽出授業っていうんでしょうか、その時間だけ自分のクラスから抜けて、別な教室でやるっていうやる。全部で4人らしい。もちろんわが長男だけが、まるっきりドイツ語初心者なんだけど。
金曜日に長男が一枚の連絡をもらってきた。日付は6月くらいなので、夏休み前にクラスに配られたものらしい。それによると、明日の土曜日、ちょっとはなれたところの公園で、「クラスフェスト」があるらしい。そのまま訳せば「クラスのお祭り」になるけど、文面から推察すると、親睦の集まりみたい。いわゆる Elternabend とかとは違いそう。これは行かねばなるまい。明日はサッカークラブの今季第1戦(トーナメント戦)があるけど、長男はまだ選手証が来ないので出られないし、それを見学してから、クラスフェストに行くことにした。
このクラスフェストって、結局最後までよくわからなかった… 子どもたちは勝手に遊びまわって(これは当然でしょう)、あとは親たちはひたすらおしゃべりをしているだけ(とっていいかどうかわからないが)。担任の先生も来ていたけど、別に一人一人と話しをしなくっちゃ、なんていうホスト的意識は全然なくて、しゃべっているだけなんだな。それでもそのうち何か始まるんじゃないか、誰かが新入りの僕らに挨拶を促すんじゃないか、とか思ったんだけど、そういうことは一切なし。この感じは、たとえば授業が始まる前の高校の教室のような風景だろうか。何人かのクラスメートの親にはそれなりに挨拶をした程度で、よくわからないままにクラスフェストは終わったのだった。
ドイツのサッカークラブ(8月第3週)
長男は日本でいわゆるスポ少のサッカーに入っていた。今年あたりは土日に平均4時間ずつくらい練習していたかも。練習試合や公式戦もいろいろあって、しだいに親も夢中になって応援するようになっていた。でももとはといえば、来るべきドイツ留学のときに備えて、長男にはインターナショナルな「言語」であるはずのサッカーをやらせておこう、という僕の長期的戦略だったのだ。
フランクフルトに着いて3日目、僕と長男はインターネットで目星をつけておいたサッカークラブらしきところへ見学に行った。練習時間は5時からだから、そこらへんを狙っていったら、やってるやってる。コーチらしき人に聞くと、長男の年齢のグループの練習日は明日だよ、明日来てみて、とのこと。この日はちょこっと練習をみて帰った。それにつけても驚くのが、サッカークラブのグラウンド。完全芝生のグラウンドと、アンツーカでナイター照明つきのグラウンド。飲み屋をかねたようなクラブの事務所とロッカールームのあるクラブハウス。建物はぼろいといえばぼろい。土地は公的に提供されているらしいけれど、ともあれ子どものときから芝生でサッカーやっている連中に、いつも固い学校の校庭でやっていて勝てるとは思えないなあ。さて翌日から、長男はクラブに入会。入会金20マルク、月会費5マルク。安い。少年の部はほぼ2歳ごとに区切られていて、長男は8?9歳のE?ユーゲントに所属。AからFまでのチームごとにコーチがいて、デザインの違うユニフォームがある。いくつかのユニフォームにはスポンサー(おそらく寄贈者)のロゴがはいっていて、「皆さんの前原精肉店」みたいなロゴが入っていることもあって少し笑える。あとでわかったことだけど、この試合のためのユニフォームはチームもち(ストッキングまで)。試合のときに個人で必要なのはシューズとすね当てだけ。試合のユニフォームは、洗濯までチームでしてくれるのだ!
さて、チームに入って試合にも出られるようになるためには「ヘッセン州サッカー協会選手登録証」をとらなければならないという。そのためには、出生登録、写真のほかに小児科医による「サッカー適性検査」を受ける必要があるのだ。これにとおらないと、試合に出られない。さすがというか、なんというか。あの翼君を上回る天才といわれた心臓の弱い三杉君は、もしドイツにいたらサッカーはできなかったかも。というわけで、長男は言葉ができないわりには楽しげに、週2回の練習に通い始めた。
第一印象(8月第2週つづき
自由ヴァルドルフ学校は生徒も先生もとてもフレンドリーで親しみやすい感じ。登校初日、授業が見たいという僕たち親子に、先生はただちに椅子を用意してくれて、どうぞいつまでも見てくださいって。その後、教室を出て待っていたいというと、今度は図書室で待ったらいいんじゃないかな、と勧められる。図書室にはいつでも無料のコーヒーとクッキーがあって、適度に見通しをさえぎるようにレイアウトされた木の本棚と木の机、いくつかのソファなど、居心地のよい、今ではあまり見ることのなくなった喫茶店のよう。休み時間には先生が長女をつれて図書室に来て下さり、次の授業のこと、今後の手続きのことなど説明してくれた。(その後もはじめのうちはほとんど毎朝長女にくっついていっていろいろ質問する僕に、先生はいつもにこやかに、わかるまで、答えてくれるのであった。)
一方、ロベルトシューマン小学校。初めての登校の日、やはり授業を見ていたいと言う僕たち夫婦に先生はどうも迷惑そう。まだいるんですか、いつまでいるんですか、もう帰りますか、っていう感じだ。その気配を察して、僕は「教室の外で待っていたいんだけど」といってみた。でもどこで? 先生は何も言ってくれないようだったので、僕は結局校庭(といっても日本のようには校庭はない。ほとんど学校の前庭、といった感じ)の木の下で休み時間を待ったのだった。授業が全部終わって、どうでしたか、と聞く僕に、先生はごく短く、ちゃんと面倒見ています、大丈夫です、くらいのお返事をくれたのだった。とりつくしまもなく、ってこういうときに使う言葉だな、きっと。
長男は公立小学校(8月第2週つづき)
さて、長男(小3)は自由ヴァルドルフ学校へはエントリーせず。ドイツでは外国人も当然に就学義務があるから、4年生までの学齢児童は自動的に住んでいる地域の公立小学校へ割り当てられるのだ。長男の行く予定の学校は、ロベルト・シューマン小学校。歩いて5分ほどの、すぐそばといっていい位置にある。
住民登録証をもって学校へ出向く。なんだかアナログな感じで、ノートにボールペンで住所や氏名、生年月日などが書き込まれて、「はい、いいですよ」みたいな感じ。あれれ気楽だなあ、とおもったのは、しかし、ちょっと早計であった。なんと、就学のためには市の保健所で健康診断を受けなくてはならないというのだ。たまたまその日は最寄の市の保健所出張所のようなところがやっている日だと聞き、ただちにそこへいく(といっても僕は所用でいけず、ドイツ語のできない妻が二人の子どもを連れて乗り込んだのだった)。そこのお医者さん、結局市の中心部にある保健所でレントゲンをとらなくてはならず、それは金曜日しかやっていないから金曜日に行けと言う。多少道に迷いつつ、指定された金曜日にレントゲンを撮りにいくと、今度は結果は1週間後ですよ、とのこと。こうして長男の編入はレントゲンの結果が出て、もう一度近くの保健所にいって診断書を書いてもらってから、ということになり、そうこうしているうちに8月の第3週に入ったのだった。
自由ヴァルドルフ学校へ(8月第2週)
<日本で>
ドイツ・ヘッセン州の今年の新学期の開始は8月6日。それまでに子どもの学校を決めなくちゃいけない。そう考えて、特に長女の学校についてはあらかじめいくつかのことを考えていた。何はともあれギムナジウム、でも言葉はできない、果たして受け入れてくれるのだろうか。幸いフランクフルトには外国人の子どもの就学相談所のようなところがあり、そこへ相談に行って、集中的なドイツ語学習コースを持っているギムナジウムにいかせたいんだけど、と相談しようと思った。しかし7月いっぱいはここも夏休みで、日本からは連絡がつかず。
そうこうしているうちに、出発の日は近づき、いよいよ子どもにもいろいろとプレッシャーがかかってきたようだ。友達と別れることに加えて、どんな学校に行くかがわからないのでは不安を感じるのは当然。父親である僕にも、果たしてギムナジウムが受け入れてくれるか、確信はなく、どちらかというと難しいかなあ、といった気分。受け入れてくれたとしても、うまく適応できるかとなると皆目見当がつかない。何しろ一般にギムナジウムは規模が大きいので、下手すれば、入ったものの、誰とも口を利く機会もなくほったらかしということも大いに考えらる。もちろん現地校を選ぶというのはそうしたリスクを承知で入れるということではあるのだが。
そのころ、謎の多いI不動産さんを通じてマンションが決まった。近くにどんな学校があるかと調べていたら、だいたい30分くらいでつきそうなところに自由ヴァルドルフ学校があるのを発見! 自由ヴァルドルフ学校は、別名シュタイナー学校。あの不朽の名著、『ミュンヘンの小学生』(子安美智子著)で日本でも広く知られているあの学校。この『ミュンヘンの小学生』の舞台はもちろんミュンヘンの自由ヴァルドルフ学校だが、ここも同じシュタイナー教育の理念に基づいて作られた、ちょっと変わった学校に違いない。教育学を学んだことがある人なら誰でも、この学校が近くにあると知って放ってはおけないに違いない。
「ちょっと変わった学校なんだけど」といって、たまたまあった、子安さん親子がミュンヘンの自由ヴァルドルフ学校を再訪してつくったドキュメンタリーのビデオを長女に見せた。長女の感想は、ずばり一言、「こんな学校はおかしい。」そのとおり。でもすべての授業をドイツ語で受けることに不安を持ち始めていた長女は、手工や音楽、オイリュトミー(ダンスとバレエの中間みたいな踊り)などの比重の高いこの自由ヴァルドルフ学校に申し込んでみることに賛成したのであった。
インターネットでアドレスを調べて、僕は自由ヴァルドルフ学校フランクフルト校に一通のファックスを送った。<あなたの学校で、ドイツ語のまるでわからない長女を受け入れてくださるでしょうか、私は成績志向、競争志向の強い日本の学校で学ぶ意欲を失っている娘に、この機会に是非、教育のオルタナティヴを経験させたいのです...>
驚いたことに、翌日、すぐに電子メールで返事がきた。受け入れてくれるという。学年・クラスについては、ドイツに着いてから相談しましょう、と。とりあえず僕は電話で感謝の意を伝え、とにかくこうして長女は自由ヴァルドルフ学校へ編入することになったのだった。<ドイツで>
8月6日(月)、自由ヴァルドルフ学校へ電話。訪問の予定を確認。今日の午後でもいいですよ、とのことだったので、2時前後に訪ねることにする。妻と長男は家に残し、長女と二人でいざ学校へ!
迎えてくれた事務の方は、ちょっと意外なことを言った。「先生はもう帰宅してしまいましたけど、いま電話で呼びますから、ちょっと待っていてくださいね。」と。15分ほどで、一人の女性の先生が自転車でやってきた。のちに長女の担任になることが決まる、エルム先生だ。この学校の教育について話したいことがたくさんたくさんあって止まらない、という風情で、僕の乏しいドイツ語力にあわせつつも、次から次へとシュタイナー教育についての話、いまのクラスのエポックの内容、僕らがここを選ぶわけ、などについての話が続いた。しばらくして、同じ学年のもう一人の先生も車で再び登校してこられた。そして再び、シュタイナー教育について話したくて話したくてたまらないという感じのこの先生の話しが始まってしまいそうになったそのとき、エルム先生が「じゃあ校内を見て歩きましょうか?」と言って下さったのだった。ホール、食堂、木工室、オイリュトミー室、食堂など、まるで迷路のような、直線的ではないつくりの校内を1時間ほども案内してもらった。どうしてこの人たちはこんなに熱心なんだろ?と思ってしまった。それほど熱心。
校舎めぐりも一通り終わったころ、ついに一番気になることを聞くときがきた。
「あの、それで、Natsumiはこの学校に入れてもらえるんでしょうか...」
「もちろんです、Herr Maehara! でもNatsumiを私たち二人のどちらのクラスに入れるかは、今から相談して決めるつもりです。あした、電話してくださいね。」話しをしながら、校舎を歩きながら、この日本からの中学生がどんな子どもなのか、それとなく観察していたのかなあ、と思ったのであった。
次の日、長女は7a(日本風に言えば、中学1年A組)、エルム先生のクラスの一員となった。ドイツのギムナジウムへ長女を入れることになったら、「むかし、『11月のギムナジウム』という好きな少女漫画があった。それを読んでいたころ、まさか自分の子どもがギムナジウムへ行くことになるとは思いもつかなかった」と書くつもりだったのに、それ以上に思いもよらないことに、自由ヴァルドルフ学校へ子どもがいくことになった。どうなることやら。
住民登録(7月29日から8月第1週までまとめて)
ドイツについて、最初にしたのは住民登録。さいわい近くに市役所の出張所のようなものがあったので、住民登録からビザの申請までそこで完了。ここの担当官は(みんな女性だったけれど)愛想がよく、親切だ。もっと不躾で冷たい感じだよ、という話しも聞いていたので、かなり安心。
ついでに当座の最大の懸案である子どもの学校のことを聞く。やはり下の子(長男卓志、小3)は問題なく学区内の公立小に入れるらしい。上の子(長女菜摘、中1)が問題。ドイツでは5年生からが中等教育という分類だけれど、中等教育の学校はほぼ3つくらいの種類に分かれていて、親は学校の種類や具体的な進学先を選ばなければならないのだ。いろいろな点から考えると、大学進学を前提としたカリキュラムを組んでいるギムナジウムというタイプの学校に行かせた方がいいよ、というアドバイスをこちらの教授からいただいたのだけれど、でもわが娘はもちろんドイツ語は全然わからない。ドイツ語の集中入門授業みたいなものはどの学校でも用意されていると聞いてはいるけれど、果たして入れてくれるだろうか。入れたとして、元気に通えるだろうか?この問題は、8月第2週、こちらでは早くも夏休みが終わって新学年が始まるときにドラスティックに解決を見たのだった。
このころまいったのがトラベラーズチェックの換金。ビザを申請するのにパスポートを役所に預けなくちゃいけなくて、変わりに「預り証」みたいな紙を渡される。そこには確かに「これが暫定的にパスポートの代わりとして有効である」とかなんとか書いてあるのだけれど、銀行もAMEXも、私のTCの換金を拒否するのであった。不動産屋(Iさんという日本人。この方についても別項で報告の予定)に家賃を払わねばならない、現金はない、すぐにおろせる銀行にはあまり金が入ってない、焦りました。そんな私の窮状を察したのか、わがAMEXは「今回だけだよ」といって5000DMの換金に応じてくれたのだった。カードも少し見栄はってAMEXを使ってきた功徳かも!(年会費高いけどね)。というわけで、無事敷金プラス8月分の家賃を払うことができたのだった。