ドイツの「学校の時間」と改革の動向前原 健二
戦後史の中で占める地位の類似性にもかかわらず、ドイツの社会は日本とは相当に異なります。ある面ではドイツの「学校の時間」の現状は理想的にも見えるかもしれません。しかし教育の制度はそれぞれの社会の固有の文脈の中で意味を持つものですから、望ましく見える外国の現状に言及することによって単純に日本の事情を批判することはできません。むしろ大切なのは、それぞれの国の教育が固有の文脈の中でどのような問題を抱え、また改革を模索しているかというダイナミズムに学ぶことでしょう。本稿ではまず「学校の時間」についてのドイツの状況を簡単に紹介した上で、その改革動向を検討したいと思います。その中から私たちは子ども・青少年の将来を保障しようとする理想主義的な議論の健在を、また現前する問題に対処する政治的リアリズムを、そしてまた一定の政治的背景を持ったエリート主義的な改革動向の共通性を、見出すことができるでしょう。
ドイツの「学校の時間」
現時点では、ドイツの学校はすべて週五日制です。しかもそのほとんどが「半日学校」と呼ばれる時間割編成をとっており、学校は八時始業、一時半までには生徒は下校します。少数ですが、全日学校と呼ばれるタイプの学校もあります。ここでは子どもたちは四時頃まで学校にとどまることができます。全日学校の拡大が議論され初めてからすでに長くなりますが、まだそれはほとんど進展していません。最新の調査によれば、全ドイツの公立義務教育諸学校の総数約三万一千校のうち、何らかの意味で「全日学校」と言えるのは千六百校ほど、約五%に過ぎません。「学校の時間」の拡大は子どもの教育に関する家庭・親の権利の侵害であるという批判があり、この批判はそれ自体としては正当なものとみなされているためです。子どもが起きている時間の半分以上を学校すなわち国が管理することを認めないというのです。
長い放課後を、子どもたちは音楽やスポーツを中心とした地域のクラブ等で、きわめて安価に、それぞれの時間を過ごすことができます。一般にそうした地域クラブは公益法人として様々な行財政的な優遇措置を受け、また自発的な寄付金によって支援されています。こうした子どもたちを取り巻く社会状況は、大人たちの状況を反映しています。残業や休日出勤はごく一部を除いて存在しません。土日は言うまでもなく、日が延びる春から秋には平日の夕方も、都市部においてもふんだんに見つけることのできる広大な公園や整備された遊歩道を家族そろって散歩し、家庭菜園を作り、多彩なクラブに集い、あるいはカフェでビールやアイスを楽しむたくさんの人々がいます。歴史的に確立されてきた労働者の権利と充実した社会資本に支えられ、きちんと働き、そして地域で人生を楽しむ、そんな暮らしぶりがドイツには確かに存在するようです。
ギムナジウムの特殊性
ドイツの学校制度において日本の高校に相当する部分は中等教育段階U(ギムナジウム上級段階)と呼ばれています。ここへの進学率は地域的に大きな差がありますが、全体として三十パーセント前後です。それ以外の生徒は満十五、六歳から特定の企業・事業所と個別に契約を結んで職業訓練を受け、同時に週一ないし二日、公立の職業学校へ通学します。これは満十八歳までの青少年にとって義務とされています。
ギムナジウム上級段階は大学入学資格(アビトゥア)を取得する教育課程です。一般的にはギムナジウムは四年制の基礎学校修了後の九年間の教育課程で構成されています。このうちの上級三学年が上級段階と呼ばれます。ドイツでは大学入学までの教育期間は日本などに比べて一年間長く、満十三年間ということになります。 ギムナジウム上級段階は全日学校についての統計に含まれませんが、ほとんどすべての学校が夕方まで各教科の授業を行っています。一般に四時ないし五時まで時間割が組まれており、また授業以外の生徒の集団的クラブ活動(AG・アーゲーと呼ばれます)もこの時間帯に設定されます。時間割編成から見ればドイツのギムナジウム上級段階は日本の公立普通校よりも過密です。ただし、ギムナジウム上級段階の授業はほとんどが教科ごとないしレベル別の選択制ですから、生徒は毎日五時まで授業を受けるわけではありません。AGの活動も通常は時間割の中の特定のコマで行われます。
かつては社会的エリートの養成コースであったギムナジウムは、急速に大衆化しました。しかし相対的にみればそうした伝統は今もなお継承されていると言ってよいように思われます。落第(原級留置)制度があり、まったく勉強しない生徒はほぼ確実に落第します。二度の落第はそのギムナジウムからの放校を意味します。したがって学ぶ意欲を失った生徒がギムナジウム上級段階まで進級してくるのは困難です。学習面だけではありません。筆者の見聞した範囲では、法的に強固に保障された生徒代表制度はギムナジウムにおいてきわめてよく機能しており、生徒有志のイニシアティブによって「エイズを学ぶ日」「専門家に聞く・世界貿易センタービル爆破テロ」など社会的意識の高さをうかがわせる企画が毎月のように組まれている学校があります。ギムナジウムのオーケストラや演劇クラブの公演を地域の人々が毎年楽しみにしているといった話もよく耳にします。勉強だけでなく、社会的参加意識、文化的能力についてもギムナジウムの生徒は一定の卓説性を保持してるといっていいように思われます。
AGや生徒代表との関わりも含めたギムナジウムの過密とも言えるカリキュラムは、教員の長時間勤務によってまかなわれているわけではありません。ドイツでは教員の勤務時間は週あたり担当授業時数で規定されています。学校段階が上がるにつれて標準担当授業時数は少なくなり、ギムナジウムではおおむね週二十五時限前後です。その日の授業が終わればたいていの教師は帰宅してしまいます。学校には教師個人の机もなく、授業以外の必要な仕事は自宅でやることになります。勤務条件の善し悪しの一面的な評価はできませんが、ギムナジウム上級段階では教員の側も生徒の側もアビトゥア取得という本来の目的を念頭に置いて集中的・集約的に時間を使うことができるような仕組みになっていると言うことができるでしょう。
ドイツの学力問題とラウ演説
ドイツの教育界でいま最大の問題となっているのが「学力低下」です。先に公表された国際学力比較調査PISAの結果でドイツの子どもたちは国際的に低位に位置付くことが明らかになりました。主にOECD加盟国の十五歳児を対象としたこの調査で、ドイツの成績は国語二十一位、数学二十位、理科二十位で、いずれも全体の平均を下回っていました。これについては多くの議論がありますが、ここでは今年一月の連邦大統領ラウの演説に即して整理しておきたいと思います。ドイツの連邦大統領は政治的権限のない象徴的存在ですが、人格と見識においてドイツを代表し、一定の影響力を発揮することが期待されています。ラウの演説は、ドイツの学力問題に対する良識的見解を代表するものと言えるでしょう。
ラウ大統領は、PISA調査の衝撃に触れて、改めて教育の改革に向けて政治的対立を越えた合意を生み出す必要を訴えています。具体的には教員一人あたりの生徒数の縮小、数理分野のカリキュラムの改善、基礎学力の確保、「学ぶ意欲」の尊重、移民等の非ドイツ語家庭の子どもたちへの支援の拡大などですが、制度的には全日学校の拡大が急務であるとしています。ラウは、全日学校が子どもの教育の「国家化」と家族の解体を招来するという批判があることに言及した上で、それにも関わらず、働く女性や単親家庭の増加などの社会の変化に即してみれば必要不可欠だと言うのです。ラウ自身は社会民主党系の人物であり、全日学校の拡大には保守政党であるキリスト教民主同盟は歴史的に反対してきましたが、それも含めてドイツの世論は全日学校の拡大に向かって大きく動いているように思われます。
教師こそが教育改革の鍵を握っている。この当たり前のことは、いくら強調しても強調しすぎるということはない。そして教師たちはいま、より多くの支援を必要としている。学校は多くの人にとって楽しい場所でなかったかもしれない、しかしそこからくるルサンチマン(恨み、反感)によって教育問題が語られるならば、教育の未来を語るすべての言説は無意味な空言になる。ラウはこのように述べて、学力低下や学習意欲の欠如、生活規範の乱れなど多くの問題が現前する中で今必要なのは学校や教師の仕事ぶりに対するあれやこれやの外在的な批判ではなく、その仕事に対する真摯なサポートであるべきだと言っているのです。
ラウ演説に呼応するかのように、これまで全日学校の拡大に積極的でなかった州でもその拡大が政治日程に上り始めています。ラインラント・プファルツ州では社会民主党がすべての学校を全日学校として拡大する選挙公約を掲げ、ハンブルク、ニーダーザクセン州、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州や、さらにバイエルン州、バーデン・ヴュルテンベルク州など南部の保守色の強い州も含めてなんらかの形で全日学校化を進めようとしています。その内容は学校内での給食サービスの提供や学童保育的な組織の設置、教員とは別の青少年教育スタッフによるクラブ活動や宿題のサポート、補習的な機会の提供から当該校の教員スタッフによるオプション・カリキュラムの提供まで、様々です。
「問題校」対策としての全日学校化
こうした全日学校化の胎動も、実は学校種ごとに相当の違いがあります。先にも少し触れたとおり、ドイツでは「学校の時間」が長くなることを親の権利の侵害とみなす伝統があります。近時の全日学校への追い風は、そうした伝統が弱まりつつあることを示しているわけではありません。論理的には、親が自らの権利を適切に行使できなくなっている状況に対する緊急避難的な措置として、国による全日学校の拡大が認められるという構成をとっています。したがって、全日学校はまずもって生徒の問題行動が頻発する「問題校」(日本で言うところの教育困難校に相当するでしょう)において求められています。先に見たような「豊かな放課後」は、すべての家庭の子どもたちが享受しているわけではなく、そこには社会階層的な格差があるのです。何をするでもなくストリートにたむろする子どもたちはドイツにもいます。
ドイツは第五学年時(満十歳)から将来の進路にあわせて学校種が分かれる分岐型制度をとっています。いうまでもありませんが、生徒の問題行動と各学校の社会的威信の高さとの間にははっきりと負の相関があります。ギムナジウムは家庭的・経済的に安定した階層の子どもたちの比率が高いことが実証的に確かめられています。ギムナジウムに対しては全日学校化を求める声は強くありませんが、それは要するにギムナジウムは「問題校」化することがほとんどないという階層的特徴と関連していると言えるでしょう。
こうした点から見るならば、上級段階まで含めたギムナジウムの「学校の時間」の現状からだけでなく、むしろ「問題校」対策としての全日学校化の議論からも多くの示唆を引き出すことができるように思われます。子ども・生徒に対する公的な「介入」や「支援」は一律に抽象的・形式的に考えられるものではなく、子ども・生徒集団の、そしてまた教員集団の、それぞれに固有な必要に応じてリアルに、具体的に考えられるべきものであるでしょう。
ギムナジウムのエリート主義的改革
さてギムナジウム自体の改革動向にも触れておきたいと思います。今ドイツでは、いくつかの州で九年制ギムナジウムを八年間に短縮する動きが出てきています。実は東西ドイツの再統一に際して、またEU統合の動きの中で、ギムナジウムを一律に八年間に短縮すべきだという議論がありました。それは通算十二年間の初等中等教育で大学入学が可能である国際的慣行を背景にしたものでしたが、最近の動向はそれとは異なるエリート主義的な傾向を持つものです。
「G8コース」と呼ばれるこの教育課程は、従来から制度として存在していた「飛び級」を拡充したもののようにも見えますが、そうではありません。それはギムナジウムへの進学の時点から他の一般クラスとは別に「G8」のクラスを特設し、第五学年からの六年間分のカリキュラムを五年間に編成して提供するものです。ここでは昼食後も授業が入るため、全日学校を求めるのとはまったく別の理由から、毎日の「学校の時間」が延長されることになります。「G8」の導入に積極的なザールラント州ではこのコースをおく学校が土曜に授業を行うことも認めています。
G8は校内での合意の上に各学校が文部大臣に設置を申請するものですが、当然、規模が大きく、従前から優秀な生徒が進学してくるとの評価のある学校が対象となります。実際、G8をおくギムナジウムは自身を「エリート・ギムナジウム」であるとはっきり自認しており、「継続して優秀な生徒を集める確信がなければG8は申請できない」し、「G8があることで、地域の優秀な生徒はより一層、このギムナジウムに集まってくる」と考えています。
ギムナジウムも文部当局も、このG8を一般化して大学までの標準教育期間そのものを満十二年にすることを望んではいません。あくまでも九年制ギムナジウムを標準とした上で、少数の知的エリートのためのG8を確立することが企図されています。G8にはいるのは一学年百ないし百二〇人のうちの二〇人程度です。こうした動向は、中等教育における学校種の分化を最小限にとどめ、異なる能力・適性を持つ子どもたちに可能な限り共通の学びの場を提供しようとするドイツの総合制学校の思想と相対立するエリート主義的な思想を背景に持つものと言えるでしょう。もちろんそこにはギムナジウムないし大学への進学率が上昇したことによって失われつつあるエリート育成機能の再建に対する一定の社会的要請があることもきちんと見ておかねばなりません。ここで問われるのはギムナジウムの教育的機能に関する実証的なデータやその評価ではなく、学校や社会のあり方に関するコンセプトの違いであるように思われます。それぞれのコンセプトの構想力、説得力が今後問われることになるでしょう。
なおテーマと紙幅の制約もあり、本稿ではドイツの「もう一つの青年期」の舞台である職業訓練と職業学校については触れることができませんでした。他日を期したいと思います。
(付記)本稿脱稿直前に、ドイツ東部の都市エアフルトのギムナジウムで銃乱射事件が起こり、教師・生徒に多くの死傷者が出ました。報道によれば自殺した容疑者はアビトゥア(大学入学資格試験)に二度失敗し、アビトゥア取得の資格を失った元生徒とされています。事件はまさに今年のアビトゥア試験の日程に前後して起こりました。大学間格差がほとんどなく、アビトゥアを取得すれば国内のどの大学へも入学できる反面、アビトゥアは二度までしか受けられません。落第制度も含めてドイツの学校は青少年に過度のプレッシャーを与えているのではないか、という議論が起こると思われます。