2024年11月11日 【匂いの代金を音で払う】
今日は落語の話から、といっても今私が落語をやるわけではありません。最近の中学生がどのくらい落語を知っているか全くわからないのですが、今からする話を知っている人もいると思います。そういう人も、しばしお付き合いください。
昔、ウナギを焼いて売っている鰻屋の隣にとてもケチな男が住んでいて、自分では一度もウナギを買わずにウナギを焼いている匂いをかいでご飯を食べていた。年末になって、鰻屋がその男のところにきて、おい、いつもうちがウナギを焼いている匂いをかいで飯を食っているそうだな、その匂いの代金を払ってもらおうじゃないか、と。そのケチな男は、ああ、払ってやろうと言って財布からお金を出した。何枚かのお金を手の中でふってチャリンチャリンと音をさせて、匂いの代金だから音で十分だろう、と。
天才的ですね! なかなかそんな支払い方、思いつきません。
いつもながらにここで昼礼の話を終えるわけにはいきません。この話を皆さんに考えてもらう材料として引き取りたいと思います。でも、ちょっと無理のあるつなぎ方になるかもしれません。
ウナギを焼いている匂いの代金をお金の音で支払うというアイディアは、世の中にお金を払って買うことのできるものとできないものがあることを教えてくれます。たとえばいつもクラスの空気を明るくしてくれる人、部活動のムードを盛り上げてくれる人というのがいることでしょう。そういう人たちは、学期末に他の生徒に代金を請求したりすることはありません。交差点で横断歩道の見守りをしてくれている人、校門でおはようと声をかけてくれる人がいます。誰も代金を求めないし、お金を渡したって受け取ってもらえないでしょう。つまりお金を払うことができないものというのが、世の中にはあります。
確かに何かを受け取っているけれど代金を支払うことはできず、チャリンチャリンとお金の音を聞いてもらうというわけにもいかないとき、私たちはどうやって「支払い」をしたらよいのか。そんな支払いは必要ないという人もいるかもしれませんが、そんなこと言わないでちょっと皆さんも考えてみてください。
2024年10月19日 【芸術発表会パンフレット ご挨拶】
「一度に道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?」by 道路掃除夫ベッポ
いまこれを書いているのは9月上旬、芸術発表会の準備はまだ始まったばかりで芸発まではだいぶ時間があります。もちろんこれをいま読んでいる皆さんはすっかり準備を終えて発表会の当日を迎えているところでしょう。
表題にあげた引用はミヒャエル・エンデの『モモ』から(岩波書店、大島かおり訳、引用は一部表記を変えています)。モモという女の子が「時間泥棒」から私たちの「時間」を取り戻すファンタジー、読んだことのある人も多いでしょう。ベッポはモモの友達で、道路掃除の仕事をしています。ずっとこの仕事をしてきたので道路掃除夫(シュトラーセンケーラー)が名字のようになっています(この種の名字は実際によくあります。シューマッハーは靴職人、ミューラーは製粉屋です)。長い道路を掃除するやり方について、表題の引用に続けてベッポはこう言います。
「次の一歩のことだけ、次のひと呼吸のことだけ、次のひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただ次のことだけをな。」
「すると楽しくなってくる。これが大事なんだな。楽しければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩進んできた道路が全部終わっとる。どうやってやりとげたかは、自分でもわからん。」
「これが大事なんだな。」
クラスの全員で一枚の絵、窓のステンドをつくり、合唱曲に取り組む時、はじめは見通しが立たなくて不安な気持ちになることもあったと思います。しかしひょっと気がつくと、すべてのクラスが自分たちの仕事を仕上げて今日を迎えている。その道のりは、必ずしも平坦なものではなかったかもしれません。それでも一歩一歩仕事を進めていくと、だんだん楽しくなってくる。そんな心持ちが皆さんの中にもあるのではないかと想像しています。そしてそれは、皆さんの附属世田谷中学校で過ごす時間のすべてに当てはまるものかもしれません。
他の学年、クラスの作品や合唱、有志の生徒たちの発表に触れるとき、大切なのは比較することではなく楽しむことです。今日までのそれぞれの道のりにも思いを馳せながら、芸術発表会の二日間を楽しみたいと思います。
*3年生の窓のステンドアートを外から撮影。
2024年10月7日 【国際教師デイによせて】
一昨日、10月5日が何の日か、知っていますか? おそらくまったく有名ではないと思いますが、「世界教師デイ」という日で、世界中で、先生として働いている人々に感謝しようという日です。先生に日頃の感謝のメッセージカードを渡したり、花束を贈ったりする国もあるようです。なぜそういう日があるのかというと、国連の機関であるILO(国際労働機関)とユネスコが「教師の地位に関する勧告」という国際条約のようなものを作り、採択したのが1966年の10月5日で、その後1994年から記念日にしたようです。
私は、今年は特に念入りに、この国際教師デイについての企画やニュースが目につかないか気にしていたのですが、文部科学省は特に何もしなかったようです。いくつかの民間の団体が関連した企画を行っていたようでした。学校の中で直接先生に感謝を表現するかどうかはともかくとして、日本社会全体としてはもう少し教師を大切にする機運をつくってもよいのではないかな、と考えながら、振り返って子どもたちのことを考えてみました。
いま、少子高齢社会とよく言われます。聞いたことがあるでしょう。しかし、高齢社会つまり高齢で長生きする人が増えているという話に比べて、少子社会の方はあまりその実質を耳にしないのではないでしょうか。私は1962年の生まれですが、この年日本では約161万人が生まれました。今中学2年生あたりの人は2010年生まれ。この年は約107万人です。つまり生まれる子どもの数は3分の2になったということです。去年、2023年に生まれた子どもは約73万人です。つまり2010年からみて更に3分の2になったということです。おそらく今年は70万人を割り込むだろうと予測されています。
1年間に70万人という数が何を意味しているか、イメージしにくいかもしれません。こんな風に考えてみてください。生まれた70万人の全員が100歳まで生きるとして、その時点で日本の人口は70万×100=7千万人。実際は全員が100歳までは生きないでしょうから、確実に7千万を割り込みます。今の日本の総人口は1億2千万を超えていますが、それが確実に7千万以下まで減る、1年間に70万を割り込めばもっともっと減る、そういうイメージです。
教師という仕事を社会全体で盛り上げることは大切だと思いますが、それ以上に大切なのは子どもたちを大切にして、子どもたちを盛り上げることでしょう。子どもたちの世代から見れば前の世代以上に強くはばたくことが求められると言ってよいでしょう。皆さんはその準備ができていますか? こう言うと、前の世代よりも重たい荷物を背負うことを求められているようで気が重くなるかもしれません。総人口が大きく減っていく社会というものを、私たちは経験したことがないんですね。つまり、何がどうなっていくのか、まったくわからないのです。世界教師デイの話をしようと思って準備したのですが、途中で話したい内容が変わってしまいました。
今日の私の話は以上です。
2024年9月23日 【番外 小さな喜び】
これはいつもの昼礼の話の採録ではありませんが、番外としてご笑覧いただければ嬉しく思います。
詳細は省略、過日、学校行事の際、ひとりのお父様から声をかけられました。この昼礼ブログをいつも読んでいただいているとのこと、ありがたいことです。そのお父さまが、「校長先生はフリーレンを知っているんですか? それは生徒から聞いて? それともご自身で?」と聞くのです。そこからこの昼礼ブログについていろいろお話させていただいて、とても嬉しく有り難く思いました。
でも、お話しながらちょっと不思議な感じがしていました。 昼礼ブログに「フリーレン」(もちろん「葬送のフリーレン」のことです)って、書いたかな? あとで見てみました。「フリーレン」とは書いていない。ただ「イメージできないものは実現できない」と書いています。もちろんこれは「葬送のフリーレン」からの引用で、話の文脈もそれを意識しています。しかしそのお父様、どうしてこれがフリーレンからだと「わかった」のだろう? はっきり書いてなくても、それを読んだときに自ずと「はっきりわかった」のです。
これを小さな邂逅と呼んでも、あまり異論は出ないでしょう。私は自分が完成された教養人だとは全く思いませんが、そういうものに近づきたいという念願は常にあって、本校の生徒たちにも(東京学芸大学の学生にももちろんのこと)そうあってほしいと願っています。「教養」は人生で「役に立つ」わけではないかもしれないけれど、人生を「楽しく、豊かにする」と信じるからです。
「教養」は、とても曖昧に響きます。まあ何でもいいんですが、いつかどこかで誰かとつながることのできる話題のようなものでしょうか。それは「人生の役に立たない」かもしれないけれど「人生を楽しく、豊かにする」。今回、改めてフリーレンはそう教えてくれました。
上述のお父様は、校長の職にある私がフリーレンを知っていること、それを昼礼講話に(こっそり)取り入れていることに興味をお持ちのようでした。私は子どもの頃から少年漫画も少女漫画もたくさん読み、日本文学も翻訳小説もたくさん読んで来ました。一番好きな古典は『伊勢物語』、SFなら『夏への扉』、SFではない翻訳小説はジョン・グリシャム。夏に読んで面白かったのは言うまでもなく(!)『三体』。漫画もたくさん読みました。一番好きな野球漫画は『キャプテン』、一番好きな少年漫画は『北斗の拳』、一番好きな少女漫画家は萩尾望都。ほぼ通じないでしょう。いずれも今日という日のために読んできたわけではありません。若い頃は映画はあまり観ていませんでしたが、その後映画も好きになり(映画って、テレビよりはるかに難しい)、今のところライフタイムベストは『ユー・ガット・メール』。音楽は、昭和歌謡とフォークならたくさん語れるのですが最近の曲はさっぱり。クラシック方面は決定的に弱い。この世からいなくなるまでにたくさん聞きたいと思っているのはバッハ。美術方面はもっと根源的に不案内で、これからたくさん見たいとも言いにくい。理数系は弱いのですが、授業を見ては本校の先生に「これって、こうなの?」と質問したりしています(先生方に聞くのは理数だけでなく、国語も体育も家庭科も、どんどん先生方に聞いてしまいます。楽しいことです)。
この昼礼ブログ、「読んでいます」と直接お声掛けいただくのは今年度にはいってから3回ほど。有り難いことです。昼礼講話もこの昼礼ブログも、なにかに直接役立つということはないかもしれません。しかし、直接役に立たないとしても意味のあることというものはある。そう思います。お声掛けいただくたびに勇気百倍、つまり今年だけで100の3乗=勇気100万倍です。
お読みいただきありがとうございました。(一度アップして少し直しました。)
2024年9月9日 【同調圧力】
皆さんこんにちは。先週から教育実習生がたくさん来ていますね。今日の私の話は実習生の皆さんに話したこととだいたい同じ話です。
皆さんも「同調圧力」という言葉を聞いたことがあると思います。いまの日本では、良い意味で使われることはあまりないかなと思います。同調圧力というと、クラスの中で誰かがいじめられている、仲間外れにされている、「みんな」がそうしているから自分もそれに同調してしまっている、結果的にクラス全体で同調してひどい状況を生み出している、というような使い方が多いからです。
しかし、同調圧力という現象は、本来は中立的なものです。たとえばこんなことがあります。まだそれほどバイオリンがうまくない人が自分の力よりもうまいオーケストラの練習にまぜてもらう時、バスケットボールで頑張っている中学生が高校の練習に参加した時、そこそこのタイムの陸上選手が速い人達と一緒に走っている時、普段の自分よりずっと「うまく」やれることがある。実力が向上したのかなと思って普段の環境に戻ると、昨日の絶好調はどこへやら、自分がどうやってあんな風にできていたのかもわからなくなって、普段の自分の実力に戻ってしまう。自分だけの思い込み、錯覚だったということもあるかもしれませんが、客観的に測定できるデータでみても確かにそういうことはあるようです。つまり一緒にその場にいる人達に知らない間に引っ張られて力が向上するという現象はあるようで、これもまた同調圧力の結果ということができます。
どうしてそんなことが起きるのか。よい方向の同調であれ、逆方向であれ、それは「人間が社会的な生き物だから」と説明できます。私たちは集団の中で周りの人の影響を受け、それは無意識のうちに行動のパフォーマンスにも影響を与えるほどに強いことがあるということでしょう。
良い方向の、集団のみんなで高めあっていくような同調圧力と、逆の方向の同調圧力があるとして、良い方向の同調圧力が働く方がよいことは明らかでしょう。しかし、そこが難しい。どうやったら上向きの同調圧力が働いて、どうなると下向きの同調圧力になってしまうのか、そこを明確にコントロールできたら、ある意味、話は簡単です。なかなかそう簡単にコントロールできず、みんなでダラダラと演奏して普段よりずっと下手な状態から抜け出せなくなったり、いつもなら入るはずのシュートが入らない、走っている全員がいつもどおりのタイムも出せないということがあって、どうやったら上向きに反転させられるかがわからないということがあり得ます。そういう時、ついつい気合いを入れてなんとかしたくなりますが、誰かが気合いを入れたらなんとかなるというものでもなさそうです。やはり一人ひとりのちょっとした気持ちの持ち方が大切になるのではないかと私は考えています。
すでにそれぞれのクラスでは、10月の芸術発表会の準備が始まっていますね。クラスという集団で少しでも良いものを作ってくときに、大事なのは上向きの方向、つまりみんなで良い方向に変わっていく流れを作っていくことでしょう。附属世田谷中学校のクラスはすべてそんな集団であってほしいし、実習生の皆さんもそんな風に授業を作ってほしい。そんなことを考えました。
2024年7月19日 【1学期終業式】
この1学期はカレンダーの都合で昼礼があまりありませんでした。そこで今日、この時間を使って少しだけお話させてください。「イメージできないものは実現できない」という話をしますが、魔法使いの話ではありません。
皆さん、夏休みにはすでにいろいろな予定が入っていると思います。その予定の中に学校の課題以外で「本を読む」を入れている人は、あまり多くないかもしれません。私は、この夏休みには、もちろん休みの間だけでなくいつでもそう思うのですが、本を読む時間をとってほしいと思っています。
なぜ本を読むことをそれほど勧めるのか。そこで出てくるのが「イメージできないものは実現できない」という冒頭の話です。
よく言われるように、ミツバチは綺麗な蜂の巣を作りますが、それはこういう蜂の巣を作ろうとイメージした結果として作っているわけではなく、本能にあらかじめ刷り込まれた通りに作っているだけでしょう。ミツバチに他の形の巣を作らせることは、できそうもありません。
それに対して、私たちは、本能の通りに何かを作るということはありません。たいていの場合、具体的なイメージを描いた上で計画したり、話したり、行動したりするでしょう。このとき、心の中の蓄積が多ければ多いほど、幅広く豊かなイメージを描くことができるでしょう。
本を読むことは、物語でも、科学や歴史や政治・経済に関する読み物でも、私たちが普段の生活の中では触れることのない、多くのイメージを伝えてくれます。もちろん、テレビやインターネットや漫画からもいろいろな新しい知識を得ることができますが、そういうメディアと比べると、本を読むことには大きなメリットがあります。それは、本を読むときに、私たちは自分で自分の頭と心の中にイメージを刻み込みながら読むようにできているということです。これはとても大切な点で、これこそが本を読むことの最大のメリットです。
物語を読めば、世の中にはいろいろな人間がいるということを知ることができます。そこには素敵な人もいれば、嫌な人もいるでしょう。本を読むことを通して、私たちは普段知り合うことのできる人よりも多くの人と、深く知り合うことができます。科学や歴史の本を読めば、私たちは社会の複雑さや未来の可能性について多くのイメージを得ることができます。たとえばハリー・ポッターを読めば、ハリーという人についてとてもたくさんのことを知ることができます。それはしばしば、いつも自分の近くにいる友達について知っていることよりも深くて広いかもしれません。友達の心の中は友達が話してくれなければわかりませんが、物語には心の中のあれこれもたくさん書き込まれていて、それによって私達はその登場人物のことをよく知ることができます。
私は、皆さん一人一人に文字通り無限の可能性があると思っています。しかしその可能性を活かして、たくさんの人たちと知り合ったり、社会の様々な場所で活躍するためには、たくさんのイメージを持つことが必要です。とはいえ、今話したことは、自分の将来にとって直接役に立つ本を読みましょうということではありません。興味の持てそうな、好きな本を手当たり次第によむ方が、イメージのプールを広げるためには望ましいと思います。
「イメージできないものは実現できない」としたら、私たちは本を読むことで心の中のイメージを豊かにする必要がある、という話をしました。実り多い夏休みを過ごしてください。
2024年5月27日 【誤差の範囲】
運動会が近づいてきました。2年生3年生には前にお話したことがありますが、日本の学校の運動会という行事は世界的に見るととても珍しいものです。外国の教育関係の人に、いくら説明しても理解されないくらいに珍しい企画と言ってよいような感じです。スポーツフェスティバルのような、その日陸上競技場や体育館のようなところでいろいろなスポーツに触れるような企画はありますが、それは日本の運動会とは全く違います。
日本の運動会の特徴のひとつに、「組」をつくって勝敗を競うという点があります。附属世田谷中でも赤青黄緑の4つにわけて得点を競い、優勝を決めていますね。勝敗が必要なのか、私個人としては迷いがないわけではありません。そのため、去年も一昨年も、終わりの校長講評というところでは、「優勝は決まったけれど、得点は誤差の範囲」という話をしました。わかったようなわからないような感じかなと思います。
そこで今日は、私がどういう意味で「誤差の範囲」という言葉を使っているか、簡単に話しておきたいと思います。実は「誤差の範囲」という言葉はいくつかの意味で使われます。日常的によく見られるのは「差が小さい」「ほとんど差がない」という意味での使い方ですが、私の場合はこれではありません。得点にははっきり差があるのです。それでも「誤差の範囲」と考えるとはどういうことか。それは、「今回の測定ではこういう数値が得られたが、もう一回測定すれば違う数値が出るだろう」という意味です。運動会の得点種目の一つひとつはいろいろな要因で勝ち負けが決まるでしょう。グラウンドの状態が影響したかもしれないし、リレーだったら、バトンを落としたり転んだりすれば結果は変わるだろうということです。
実は、社会の中のいろいろな事柄にもそういうことがあります。入学試験などは特にそうです。もう一回やれば全然違う結果が出るかもしれないけれど、今日出たこの結果で物事が進む、というようなことです。それはおかしい、本当の結果が出るまでやるべきだと考えますか? それは正しいのかもしれませんが、世の中はそういうふうにはできていません。
話を運動会に戻しましょう。運動会本番で不本意な結果が出たからといって、もう一回運動会をやるわけにはいきません。結果は結果です。得点によって優勝が決まるという仕組みでやる以上は、全力で結果を求めてもらいたい。しかし同時に、どんな結果が出てもそれはやっぱり「誤差の範囲」の差であるかもしれないということも忘れないでほしいと思います。週末の運動会、全力で頑張りましょう!
2024年5月13日 【ジェンダーギャップについて】
今年はカレンダーの都合で4月には昼礼がありませんでした。したがいまして、1年生にとっては今日が初めての昼礼ということになりますね。昼礼では今やっているように校長の話というのがありますが、世の中では「校長の話」というのは長くてつまらないもののたとえに使われることもあるようです。たまたま先日、家で見たドラマの中でもそんなセリフがありました。そんな世間の印象に負けないように、本校の昼礼では短くて興味を持って聞いてもらえる話をしようと思っていつも準備をしています。
さて今日は、先日行われた本校の生徒会、緑友会の総会の討論を聞きながら考えたことを話したいと思います。まず、総会の討論の中でとてもたくさんの発言があり、そのひとつひとつがしっかりした自分の意見だったことにとても感銘を受けました。大勢の前で、堂々と自分の意見を述べることができるのは素晴らしいことだと思います。総会での議論は今後も継続されるようですから、これからの討論も楽しみです。
総会で話題になった「委員会の男女枠」に関連してもうひとつ話したいことがあります。「ジェンダーギャップ指数」についてです。知っている人も多いと思いますが、これは国際的な機関が毎年発表しているもので、最近のデータでは日本は調査の対象となった146ヵ国中の125位、いわゆる先進諸国では飛び抜けて低い位置にあります。つまり日本は男女平等の度合いがとても低い方の国だということです。これは、日本社会で暮らして学校に通っている皆さんの実感には合わないかもしれません。
ジェンダーギャップ指数は多くの指標を組み合わせて算定されていますが、大きなまとまりは「健康・医療」「教育」「政治」「経済」の4つです。このうち「健康・医療」と「教育」の二分野においては、日本も男女のギャップはありません。しかし政治と経済の面の男女のギャップがきわめて大きい。そのため、トータルで見ると125位となってしまいます。ジェンダーギャップは小さい方がよい、つまり社会の中での扱われ方に男女で違いがない方がよいということは、皆さんも賛成だろうと思います。では、それはなぜでしょうか。私が思うに、男女の平等が望ましい理由は大きく言って2つあります。一つは、男性と女性が等しい扱いを受けるのは「当たり前」だからです。こういうのを「規範的」な理由付けと言います。ちょっと哲学的な理由と言ってもよいかもしれません。もう一つは、「性別に関わりなく全員にその能力を発揮して社会に貢献してもらう必要がある」からです。経済的な理由と言ってもよいかもしれません。日本のように少子高齢化が進むと、とにかく若い世代は全員がしっかり頑張らないといけない、といった感じです。これらの哲学と経済学の組み合わせでいろいろな主張が生まれます。
ジェンダーギャップは、これからの日本で引き続き大きな課題です。緑友会の議題とも関連させて、是非一人ひとり、考えてみてください。
2024年3月19日 【改めて「なぜ学校に行くのか」を考える】 *本校新聞委員会発行『緑友』第75号寄稿原稿】
昨年、日本で二人目のノーベル文学賞受賞者の大江健三郎さんが逝去されました。私は高校生の頃からたまに大江さんの小説を読んできました。内容は常に難しく(というよりむしろ小難しくて)、「分かった」とか「面白かった」とか思ったことはあまりありません。そんなものをどうして読むのかというと、苦しいことは分かっているのに時々山に登りたくなる人のようなものでしょうか。
そんな大江さんですが、エッセイは少しわかりやすいと思います。なかでも割と知られているのが「なぜ子供は学校に行かなければならないのか」(『「自分の木」の下で』朝日文庫、所収)。このエッセイは、もともとはドイツの出版社の「ノーベル賞受賞者が、子どもの疑問に答える」という企画の一部で、私が最初に読んだのはドイツ語の教材としてでした。きっとドイツにも学校に行く意味がわからないと感じている子どもはたくさんいるのでしょう。
大江さんの答えは、今まで受け継がれてきた言葉や出来事やすべての経験を受け継いでいくため、またすべての科目を通じて自分を発見し社会とのつながりを確かなものにするため、です。実際はもっと複雑で文学的に書かれていますが、それを差し引いてもあまり説得された気がしません。これは学校に行くことに意味や喜びを見出して学校に通った経験を持つ人が、その意味や喜びを説明した答え方のように思われるからです。
私ならどう答えるだろう? 学校に行かなければならないわけじゃないことは確かです。とはいえ、人には生きる意味や喜びを見出す場所が必要であることは間違いない。多くのひとにとってこの学校がそういう場所になっていれば嬉しい。今の私はそう思います。
2024年2月19日 【昆虫食の未来】
今日の昼礼はいつもより少し緊張しています。それは先週、1年生のスピーチコンテストで素晴らしいスピーチをいくつも聞いたためです。私の場合、ここでスピーチするための予選は通過していないのですが、また全てのスピーチの内容がすべての皆さんにしっかり記憶されるというわけにはいきませんが、いつも一生懸命考えて準備して話しています。
さて、二週間ほど前に長野県松本市の大学を訪問しました。夕飯を食べようということになり、せっかくだから地元らしい料理のあるお店に行くことにしました。行ったお店は馬肉料理が名物のようでした。長野県は昔から馬肉をよく食べることで知られていますね。そこには馬肉のほかに鹿肉、猪の肉もありました。熊肉や兎肉もあるようでした。メニューを見る限りでは、つまり注文しなかったのですが、馬肉と鹿肉を使った「馬鹿鍋」(ばかなべ)という料理もあるようでした。そんなバカな…
単に松本で夕飯に馬肉を食べたという話がしたいのではありません。長野県は歴史的に食の多様性の度合いが高いようです。2年生の皆さんは夏のスタディツアーの一環で長野県の「クリケットファーム」というところへ行きました。そこはコオロギを養殖して育て、動物性タンパク源として活用していこうというベンチャー企業でした。養殖したコオロギをそのままお寿司をつまむようにつまんで食べるという話ではありません。動物性タンパク質を含むパウダーにしていろいろな食品に加工していくというものでしたね。つい先日、そのクリケットファームが破産、倒産したというニュースをみました。詳しい事情はわかりませんが、要するに現状では経営としてはうまくいかなかったということでしょう。
日本国内でもクリケットファームはわりと知られていましたし、国際的には昆虫食は効率性の高い動物性タンパク源としての可能性がとても注目されている主題と言ってよいものです。昆虫食と言うと、どうしても昆虫そのものを手づかみで食べるような絵をイメージしがちですが全然違います。興味を持った人は是非、昆虫食について、またはこれからの世界の食糧事情について調べてみてください。今日の私の話は以上です。
2024年1月29日 【自由とは何か?】
みなさんも知っている通り、私は本校の校長ですが大学の教員を兼ねています。つい先日、大学教員の目から見て興味深いニュースがありましたので、今日はそれについて話したいと思います。
そのニュースは、「大学の授業中、学生が鍋を食べる 許可した教授が明かす「自由」をめぐる深い理由」というものです。「鍋を食べる」と言ってももちろん鍋そのものを食べてしまって驚いたという話ではなく、鍋の中身の料理を食べるという話です。
次のように報道されています。
「投稿したのは、ポピュラー音楽研究者で同大学教授の増田聡さん。以前から『自分の授業では教室で鍋をやってもいい」と許可しているという。今回の学生の行動について「わたしは大学とはこういう場所であるべきだと思ってます」との見解を示した。
投稿に対しては、『素晴らしい取り組み』などと称賛する声が上がる一方、『これで授業が成立するはずがない』などと批判する声も上がった。」
「なぜ授業中の鍋を許可しているのか。増田さんは23年12月中旬、「他の受講生に迷惑をかける行為は禁止ですが、『迷惑をかけなければ何をやってもいいよ』と言っています。『授業を途中退出したり、立ち上がって背伸びをしたり、迷惑をかけなければ授業中に鍋をやってもいいよ』とも話しています」と取材に説明する。」
「『大学で授業を受ける態度は、居眠りを禁止されるような高校までの学び方とは違い、個々の学生が自発的に考えるべきであって、何が他人に迷惑をかけるのかということも自分で考えなければいけません。仮にそういうことが起こったら、その場で学生同士で話し合えばいいじゃないかと言っています』。」
「「『自由というのは 0%か100%ではなく、常に具体的な場において、『これぐらいの範囲や程度なら良いけどそれを上回るとダメだ』ということを測りながら、見えないルールや周りの人との交渉によって、具体的に可能な自由を行使していくというプロセスが1番大事だと思います』。」
「『大学という場は、単に教師が言うことを学習するだけの場ではなく、色んな試行錯誤を自律的に行い、『ここまでの範囲であれば自分の能力や周囲の人との共同作業で可能だ』と理解していけるような、自由の具体的なあり方を測れる空間なのではないかなと考えています』。」
皆さんはどう思いますか? 私は、一人の大学教員としては、大学が自由な学びの場であり自由の可能性を具体的に考えるプロセスが大事だという点は共感しますが、だからといって講義中の鍋の話にはまったく共感できません。自由はこういう風に試したり使ったりするものではないと思います。
皆さんが学んでいるこの附属世田谷中学校は、とても自由な学校だと言われることがあります。(これについては以前の昼礼で話したことがあります。2022年11月21日のところを見てください。)普通の授業中に鍋をやろうとする人はいないと思いますが、中学校に置き換えるとどういう問いになるでしょうか。自由って何なのか、大学での学びって何なのか、友達や家の方とも是非話し合ってみてください。
2024年1月22日 【朝日新聞1月20日付け朝刊、インタビュー記事】
東京都内で自宅で朝日新聞を購読している人は気づいたかもしれませんが、一昨日、1月20日の朝刊の【地域総合】面に私の本校校長としてのインタビュー記事を掲載していただきました。「楽しくなるまで よくばりに」という見出しになっています。
(昼礼では記事そのものを読みましたが、ここでは全文は割愛します。以下内容の要点を箇条書きに。
記事へのリンクは https://www.asahi.com/articles/ASS1Q5HFYRDGOXIE04Z.html?iref=pc_ss_date_article ただし一部有料記事になっていると思います。)
・偏差値のランキングの並びをみて学校を選ぶのは、あまり意味がない。
・本校は先取り的学習も受験のために特化した授業もないし、建物も古く制服も普通。
・教員は授業を大切にして生徒が一生懸命に学び、運動会も芸術発表会も頑張る学校。
・私自身はドイツと日本の教育を研究する大学教授でもあるが、ドイツには競争的な入試はないけれど子どもたちはしっかり学ぶ。日本は試験のための勉強に偏りすぎていないか、と危惧する。
・現実には受験はあるから、行きたい学校があって入試があるなら全力で取り組んでほしい、しかし進学した学校で人生が決まるなどということはないことも知っておいてほしい。
・受験に関係ない勉強、苦手な分野も学んでいくと楽しくなることが多いもの。楽しくなるところまで、まずは頑張ってみてほしい。
どうでしょうか? この記事は、中学校受験を考えている小学生や保護者の方向けの企画ですが、いま実際にこの学校で学んでいる皆さんはどう感じますか? 以上の内容は、昼礼でもしばしば触れてきていることだと思います。朝日新聞をとっている人は家で保護者の方と一緒に読んで考えてみてください。
2024年1月9日 【3学期始業式】
新しい一年が始まりました。いつもなら明けましておめでとうと元気に言うところですが、今年はそう言いにくい。そうです、1月1日に能登半島でかなり大きな地震があり、被害が出ています。2日には羽田空港で着陸してきた旅客機が海上保安庁の飛行機と衝突する事故がありました。ニュースの映像では決して小さくない爆発が映り、最終的に旅客機はほぼ全焼しました。
例年、2学期の始業式では防災への備えについてお話をすることにしています。皆さんにも、たとえば学校に来ている時に大きな災害があったらどうやって家族と会うのか、自宅へ集まることを目指すのか、学校にとどまって家族に探しに来てもらうようにするのかといったことを話し合ってみてはどうだろうか、という話をしました。今日も家に帰ったら早速に、いざ大地震があって連絡が取れない状況になったらどうするか、保護者の方と話してみてください。飛行機事故に戻ると、海上保安庁機では亡くなった方がいますが、旅客機からは全員が無事脱出できたことは不幸中の幸いでした。緊迫した局面でも落ち着いて行動できるように準備するというのは簡単ではありません。実際そういう場面になってみないと本当のところはわからないでしょう。そうであっても、皆さんにはこう望みたいと思います。電車の中や出かけた先々で、もし今ここで災害が起きたらどうしたらいいだろう?と、時々でよいので考えてみる。災害は時と場所を選んではくれませんから、せめて頭の中での備えを忘れないでください。
さて、今日は1月9日です。あと2ヶ月後には卒業式が予定されています。3年生はひと足早く、この学校から旅立っていきます。その他の皆さんも2ヶ月ちょっとです。1年生はこの附属世田谷中での1年間をしっかり振り返ってほしいし、2年生はこの学校で過ごすあと1年間をしっかり展望してもらいたいと思います。
2023年12月22日 【2学期終業式】
今日で2学期が終わります。今年は少し長めの冬休みになりますね。冬休みはクリスマスから年末年始と大きなイベントがありますから、普通にしているとあっという間に過ぎてしまうかもしれません。一日一日をしっかり過ごしてほしいと思いますが、そう言うだけでは印象に残らないでしょうから、少し数字を使ってお話したいと思います。
一昨日、1年生は「命の安全教育」という学習で、3人のゲストの方からお話をいただきましたね。助産師、カウンセラー、弁護士の方からのお話を一緒に聴きながら私が感じたのは、皆さんの一人ひとりが命を得て生まれ育って今こうしてこの場に集まっていることはまさしく奇跡の連続の結果だということです。1年生の皆さんにはその時も話しましたが、私には3歳になる孫がいます。最近は、何でも話せるようになりました。「保育園の運動会、来られたらよかったのにね」(私は用事があって見に行かれなかったので)とか言っていますが、この表現の中にはとても複雑な単語や時制や助動詞が含まれています。赤ちゃんとしてゼロから始めてこのレベルの日本語が使えるようになるまで、数えてみると1000日ほどです。このうち半分くらいは全く話すことができない時間です。毎日どのくらいの数の言葉を覚えているのか、見当もつきません。小さな子どもが、一日一日、言葉や、言葉だけにとどまらないいろいろな事柄を吸収していくスピードは驚異的です。
ところで、皆さんは自分がこの世に生まれでてから何日ぐらい経ったか知っていますか? 満15歳になるまで5500日ぐらいです。1年生2年生もいるのでとりあえず5000日と考えることにしましょう。3歳までが1000日、15歳でだいたい5000日。この「5000」という数をどう感じますか? 私はとても小さいと感じます。たった5千日で、皆さんはまったくのゼロから今の自分の大きさになり、性格をつくり、学力やそれ以外の様々な力を獲得してきたことになります。一日一日、どのくらいの成長を積み重ねて今にたどりついているのか、やはりそのスピードは驚異的だと思います。
5000日の一日ごとにどれほど多くのことを吸収して成長してきたかということに思いを致せば、冬休みの一日一日も毎日どれほど多くのことが吸収できるか、3学期にどれほど成長した姿でまた学校に戻ってこられるか、と考えることができると思います。皆さんの成長した姿を見ることをとても楽しみにしています。
2023年12月4日 【テスト期間が終わって、テストについて考える】
2学期のテスト期間が終わってスッキリしている人も多いでしょう。そんな時期だからこそ、今日はテストの話をしましょう。
私はいろいろな大学で「教育学」という、教育に関する授業を担当してきました。最近、大学1年生が多く履修している講義で、国語教育や英語教育、数学教育の話をしました。私自身は、学校で国語や英語や数学を教えるちからはありませんが、日本の学校でそういう教科が抱えている課題について調べて、まとめて、講義を作っています。
大学生の多くの人が、国語や英語や数学の授業についてよくない思い出を持っています。国語なら、本当は正解なんてないのに無理に正解が決められておかしい、古文漢文なんて全然学ぶ意味がわからない、英語なら6年間、人によっては10年間も勉強してきたのに全然話せない、数学であればはっきりと、中学校以上の内容は一生使わないようなものばかりで無駄な時間だ、といったことです。皆さんはどう思いますか?
関連するデータとか論点をいろいろ示して、小グループで話し合いとかもしてもらって、講義の最後に感想を書いてもらったのですが、面白いことに多くの大学生が「テストや受験がなければ話は少し違うかもしれない」と書いていました。分からなくてつまらなくて意味がないと思っている高校までの勉強に、もしテストや受験と関係なく存在していれば、ちょっと違った感じで向き合えていたかもしれない、ということです。
皆さんには前にも話したことがあると思いますが、学校での勉強はテストや受験があるからやる、それがなければやりたくない、と強く考えるのは世界的に見ると普通のことではありません。珍しいタイプの考え方です。テストや受験のために勉強すると考えていれば、大学生になり社会に出ると、そのあとはもう勉強しないことになってしまいます。そうではなく、今皆さんが取り組んでいる勉強は直接なにかの役に立つことがないとしても、将来皆さんがそれぞれの場所で何かを達成するために学ぶ、そのための準備であり練習だと思います。私は、これは当たり前の考え方だと思いますが、大学生はあまり納得してくれません。なかなか難しい問題なのかもしれません。
誤解のないように言い直しますが、テストのためにしっかり勉強して準備する必要がないと言っているのではありません。テスト期間が近づけばしっかり準備してほしいし、受験の時期には目標に向かってしっかり努力する必要があります。しかしそれでも、学校の勉強はテストのためにするものではなく、もっとずっと大事なことのためにあるということを心に留めておいてほしいと思います。
少しむずかしい話になりましたね。今日の私の話は以上です。
2023年11月13日 【フェアに比較するということ(少し難しいかも)】
もうすぐ、2学期のテストの時期になります。本校の場合、学期ごとの中間試験と期末試験というスタイルではありませんね。中間試験と期末試験があると、テストの回数が多くなるから嫌だなと思う人もいるでしょうし、反対に学期中にテストが1回だと準備する範囲が広くなるから嫌だなと思う人もいるかもしれません。
いまの話と少し関連しますが、今日は何かと何かを「比較する」ということについて話したいと思います。大きい/小さい、強い/弱い、優れている/そうでもない、といったことを感じるとき、私たちはどんなふうに考えているのでしょうか? 多くの場合、そういう感じ方は「比較」の上に生まれています。身長170センチの私は、もっと背の高い人と並べば「小さい」と見えるでしょうし、ずっと背の低い子どもたちと並べば「大きい」と言われるでしょう。当たり前のことです。
しかし、世の中には時々、奇妙な比較があります。たとえば「中華料理とフランス料理、どっちが上か?」のような話をするときに、最高の中華料理と庶民的なフランス料理の比較を持ち出したりする場合です(もちろん、例は逆でも構いません)。最高の中華は最高のフレンチと比較しなければフェアではないし、庶民的中華は庶民的フレンチと比較するのがよい。
では、スポーツの試合を観に行くとして、サッカーとバスケットボール、どちらが魅力的か、だったらどうでしょう? 少し複雑ですね。サッカーの試合は基本的に外でやるので、夏は暑いし冬は寒い。バスケットは体育館で行うことが多いので、暑さ寒さの影響はあまり受けません。しかし、だからといってバスケットボールの方が観るスポーツとして高く評価できるかというと、簡単にそうとは言い切れません。暑さ寒さの他にもいろいろ考えたいポイントがあるからです。(好きなスポーツを観に行けばよいので、比較しても意味がないという声はあるでしょう。その通りです。ここは例え話なので、このまま話に付き合ってください。)
先ほど、フェアな比較という言い方をしましたが、実はフェアな比較というのは難しい。どんなポイントを立てて比較しても、どちらかに有利でどちらかに不利な比較になりがちだからです。私たちは、ついつい、自分が推しているものに有利なポイントを立てて比較してしまいがちです。
実は今日お話したいのは中華料理とフランス料理の話ではなく、2つの意見や考え方があって、論争するような場合にどういう態度でそこに参加するか、ということです。また別の例えを出しますが、図のような山並みがあるとします。この山並みを越えて向こう側へ行きたいとして、皆さんはA、B、Cのどの道筋を選びますか? 一番楽そうなのはAですね。Cを選ぶ人はあまりいないかもしれません。だって、それは見るからに一番きつそうな道筋だからです。
確かに、Aの道筋を通っていけばあまり苦労せずに向こう側へ行かれそうです。しかし、その場合、本当にこの山並みを「越えた」ことになるでしょうか? なりませんね。「越えた」と言うためには、どうしてもCの道筋を通らなければなりません。この山並みは、「自分とは違う考え方」「自分が推していない選択肢」の例えです。自分と違う考えをしっかり理解して、自分の考えの方がより正しい、適切だというためには、AではなくCを越えていかなければなりません。手軽な反論をするなら、Aのような「越えやすいポイント」を突けばよいのですが、それでは本当に「越える」ことにはならないということです。
少しややこしい話になりましたね。できたら、自分の身の回りのことに置き換えて考えてみてください。
2023年10月 【芸術発表会パンフレット ご挨拶】
「カッコイイとは、こういうことさ。」 by ポルコ・ロッソ
3年生にとっては最後の、2年生にとっては新しいクラスになって最初の、そして1年生にとってはもちろん初めての芸術発表会の季節がきました。すでに夏休み前から始動し、夏休み後は毎日のように合唱と絵画制作に相当の時間と精力を注ぎ込んできた皆さんの奮闘の成果を、来校される多くの方々と一緒に存分に楽しみたいと思います。
いまこのパンフレットを見ている生徒の皆さんの頭の中には、どんな思い出がよぎっているでしょうか? その過程には楽しいことだけでなく、苦しいこと辛いこともあったかもしれません。十分な時間が取れなかったり、思ったようには作業が進まなかったこともあったでしょう。みんなで決めたことなのに実際に始まると一人ひとりの考えが微妙に違っていることもあったでしょう。それでも各クラスが少しずつ団結を強めてこの数ヶ月を過ごしてきた様子を私もベランダから、またドアの隙間から垣間見てきました。その集大成として、いよいよ今日、芸術発表会を迎えました。来校いただきました皆様におかれましても、是非そうした過程にも思いを馳せつつご観覧いただければありがたく存じます。
二学期に入ってからの芸術発表会の準備期間はほぼ教育実習期間と重なっていることもあり、例年音楽科の教育実習生の皆さんには各クラスの合唱指導にも尽力いただいています。この紙面をかりて御礼申し上げたく思います。ありがとうございます。
冒頭の表題はスタジオ・ジブリのアニメ映画『紅の豚』のキャッチコピーからとったフレーズです。1992年公開の映画なので中学生の皆さんはあまり知らないかもしれませんが、主人公のポルコは客観的にはあまり「カッコイイ」ようには見えません。しかし彼はそんなことは気にしていません。いつだって自分は最高に「カッコイイ」と思っています。なぜならいつでも自分の信じた道に向かって全力だから。芸発での各クラスの発表もそうあってほしいと思います。自分たちのメッセージが全力で表現されていれば、それはきっと最高に「カッコイイ」。今年も楽しみでたまりません。いよいよ、始まります。
2023年10月16日 【生活学校と学習学校】
今週はいよいよ芸術発表会の週です。そこで今日も芸術発表会に関係した話をしたいと思います。運動会の時にも同じような話をしましたが、いま皆さんが一生懸命取り組んでいるようなクラスごとの合唱祭のようなものは、ヨーロッパやアメリカ、いや私の知る限りでは世界のどの国にもありません。合唱(コーラス)のクラブのようなものはあります。学校のコーラスクラブがとても高いレベルで、お客さんを呼べるコンサートをするようなケースもあるでしょう。しかし、クラスごと、すべてのクラスが合唱の練習をして発表するような企画はありません。
日本の場合、高校生になると芸術系の科目は音楽と美術と書道の中からひとつを選択することになることが多いと思います。つまり3分の1くらいの生徒は高校でも音楽という科目を受けるけれど、あとの生徒は音楽の授業がありません。しかしその場合でも、各クラスごとに曲を選んで合唱をするという企画は普通に見られます。世界的にみると、これもとても珍しいことです。
要するに、世界の中の多くの国、社会では、学校に運動会も文化祭も合唱もない、さらに言えば給食指導も掃除も部活動もないという状況が普通に存在するということです。それが良いことなのか悪いことなのかという評価はおいておくとして、これを教育学の用語で説明するとどうなるかということを話したいと思います。
世界の多くの国や社会でみられる、基本的に授業しかやらないというタイプの学校を「学習学校」と呼ぶことがあります。授業しかやらないので当然ながら学校にいる時間も短めです。私たちにわかりやすく言い換えると、学習塾のような形態でしょう。それに対して、日本の学校のように授業以外にも様々な企画があって、それに応じて学校にいる時間も長くなるタイプの学校を「生活学校」と呼びます。(なお中国の学校は特殊で、学校にいる時間はとても長いのですが内容的には授業以外の時間がほとんどないようです。)
私たちの社会は「生活学校」タイプの、ちょっと変わった学校を作ってきていて、これにはもちろん歴史的な背景があります。今日はそうしたところまでは踏み込みませんが、興味を持った人は少し頭の隅に置いておいてください。なにはともあれ、今週末は芸術発表会です。この一週間、世界的にも珍しいこの学校行事に向けてしっかり準備をしてほしいと思います。頑張りましょう!
なお、前にもお話した通り私は教育学という分野を研究してきました。この昼礼での話より少し長く、20分か30分くらいで中学生の皆さん向けに教育や学校に関する話をして質問も受け付けるような自由参加の企画を図書委員会と図書館の村上先生と相談して作ってみようと思っています。芸術発表会が終わったらなにかの形でアナウンスすると思いますので、楽しみにしていてください。
2023年10月2日 【合唱、あるいは共有地の悲劇】
前回は芸術の中の絵画に関係する話をしました。今回は音楽の話、特に合唱の話をしたいと思います。と言っても最初に話すのは経済学の話です。
経済学を勉強しはじめると最初の方に出てくる有名なエピソードに「共有地の悲劇」というものがあります。こんな話です。村の中のすべての家が一頭ずつ羊を飼っている。羊は草を食べるけれど、この村には大きな共有地があって、そこでは村人は自由に羊を飼うことができる。草を食べてももちろん無料です。この牧草地は十分に広いので羊が好きなだけ草を食べても自然に十分に回復します。そのうち、賢い村人が自分の家の羊を2頭3頭と増やし始めます。それでもこの牧草地は十分に広いので大丈夫。そうすると、羊を百頭飼い始める家が出てきます。他の家もそれを真似るでしょう。そうやって羊の数が増えていくと、ある日突然悲劇が訪れます。一日のうちに牧草地の草が残らず食べ尽くされてしまい、回復することができなくなってしまうのです。もはや村人は一頭の羊も飼うことができなくなってしまいます。
経済学の勉強では、ここから公共施設や公的なサービスをどの程度の質、量で、どのくらい料金を取って/無料で、提供するかという話へ進んでいきます。どこが合唱の話につながるんだろうかと思っている人もいるでしょうし、もうこれが合唱の話だと気がついた人もいるでしょう。
私は中学生の頃までは合唱が好きではありませんでした。できれば歌いたくないなと思っていたと思います。皆さんの中にも、もしかするとそう思っている人もいるかもしれません。そこで考えてみます。合唱ですから、一人歌っていなくても特に変化ないかもしれません。二人歌っていなくても気づかれないかもしれません。しかし三人、五人と歌わない人が増えていけばある瞬間にそのパートが全然聞こえなくなったり、合唱全体が完全に崩れてしまうことになるでしょう。悲劇です。
この共有地の悲劇のエピソードはとてもパワフルなので、いろいろな方面でたとえ話として使われます。ネガティブな方向だけでなくポジティブは方向で使うこともできます。たとえば一人で元気に挨拶する人、掃除を頑張る人がいたとして、一人だと周りから見て奇妙に見えるでしょう。しかし二人、三人と仲間が増えていくと、特別な瞬間がくるかもしれません。元気に挨拶をすること、掃除を頑張ることが「当たり前」になる瞬間です。こうなると、それは悲劇ではなく奇跡と呼べるでしょう。部活動でも同じことが大いにあると思います。合唱にも同じことが言えるのではないでしょうか。
芸術発表会が近づいてきました。一人ひとりの声が集まって作る合唱の素晴らしさを見ることができるのを楽しみにしています。
2023年9月11日 【朱雀@キトラ古墳】
こんにちは。いま各クラスでは芸術発表会の準備が進んでいると思いますので、今日は芸術関係の話をしたいと思います。
私は大学教員としての仕事もしています。この夏休みの間に、依頼を受けて京都大学というところで集中講義という形の授業を担当してきました。話したいのはその話ではなくて、それが終わってから見に行った奈良県のキトラ古墳の話です。
キトラ古墳は奈良県にある小さな古墳で、割と最近、1970年代に発見されました。石を組んで作った小さな部屋(石室)の中の4つの壁と天井にカラーで描かれた絵が発見されて、大きな話題になりました。その絵は石室の中から特別な方法で剥がされて保存され、現物が時々期限を定めて公開されています。今回それを見に行ったのですが、一度に一面分しか公開されていないため、4面すべてを見るには奈良に4回行く必要があります(天井の星宿図は4面のどれかと一緒に公開されるようです)。
4つの面の壁画は朱雀、白虎、玄武、青龍です。今回公開されていたのは「朱雀」です(昼礼の時に見せた復元図はこちらです)。この鳥の絵は、私たちの世代にとってはとても有名な漫画家、手塚治虫の絵にとても似ています。発見されたときには「1300年前にも手塚治虫がいたのか!」という感想が出ていました。本当に、1300年前のものとは信じられない素晴らしい絵だと思いますし、これが色も含めて残っていて、発見されたことも素晴らしいことだったと思います。
1300年前の人たちはどんな気分でこうした絵を描いたのでしょうか。実際に制作したのは大陸から渡ってきた、高度な技術を持った職人集団だと考えられるようですが、絵に対する思いはいろいろな見立てができると思います。私が思うのは、「絵を描く」ということは人間の自然な本能のひとつなのだろうということです。
今、皆さんは芸術発表会に向けてクラスで大きな制作にとりくんでいるわけですが、もしかするとこの制作も「絵を描く」という人間の本能につながっているのかもしれません。そんなことを考えました。
2023年9月4日 【改めて、防災意識を持とう!】@避難訓練を実施した日の昼礼
みなさん、こんにちは。先ほど予告なしで行われた避難訓練はうまくできましたか? 今日は、改めて防災についてお話したいと思います。
今年は関東大震災から100年目にあたります。ですから、例年以上に関東大震災に関してニュース番組やいろいろな記事で取り上げられることが多くなっているようです。皆さんもそういうニュースなどをよく見かけたのではないでしょうか。たまたま昨日も、なぜ関東大震災で多くの人が火事で命を落としたのかを考えさせる番組がNHKで放送されていました。私ももちろん直接的には関東大震災を知りません。しかしその番組を見て、関東大震災の場合、震災直後に家屋の崩壊によって命を落とした人よりも、ある意味で少し落ち着いてから、火事から逃げようとして命を落としたケースが多かったことを知りました。
比較的近年の大きな地震について見てみると、阪神淡路大震災(1995年)では地震による建物の倒壊によって命を失った人が多かったようです。皆さんも記憶していると思いますが、2011年の東日本大震災では地震の揺れそのものによってではなく、津波によってとても多くの人が命を落としました。つまり、地震に対する備えは、簡単ではありません。
また、今日の避難訓練は学校にいるときに大きな地震が来たという想定でしたが、地震はいつも昼間起きるわけではありません。本校の校舎はある程度の耐震補強がされていますから、ある程度安全と言えます。そのほかの場所、時間、本当に地震が起きたときにどこにいるかはわかりません。いつもいつも地震のことを考えて行動するというのは難しいと思いますが、学校以外の自分の行動範囲の中で地震が起きた場合はどうしたらよいのか、時々立ち止まって考えてみてください。大きな地震の場合、家族と連絡が取れなくなることも考えられます。家族がお互いを探しまわって入れ違いになるという事態を避けるために、連絡がつかない場合はうちの家族はここへ集まって、そこから探しに出ないで待つという集合場所を決めておくと良いと言われます。皆さんは、決めてありますか? 今日家に帰ったら、家族の方と話してみてください。
2023年6月26日 【試験のための勉強について】
はい、皆さんこんにちは。
前回の昼礼で、日本の子どもたちは中学生の頃から勉強が嫌いになる、これは世界中でそうなっているわけではなく日本に特徴的な問題のようだ、という話をしました。こうなっている原因については有力な説明がある、それが何なのか、次の昼礼までに考えてみてほしいと言いました。覚えていますか?
一番有力な説明は、「テストのやり過ぎ」というものです。前回見せたグラフをもう一度見てみると、中1から中2にかけて大きく変化があることがわかります。日本の学校では、小学校では日常的にはいろいろなテストがありますが大きなテストはありません。ところが中学校に入ると、多くの学校で中間試験と期末試験が始まり、全体の平均点との差や自分の順位が示されるようになります。平均点と比較したり、順位を競うようになると、勉強の中身に関心を持てなくなるというのはとても自然なことのように思われます。中1まではまだ小学生のような気持ちでいられても、中学校1年生の1年間で約半分の生徒たちは自分が平均よりも下の点数しか取れていないことを自覚しないわけにはいかないでしょう。
本校は、多くの公立中学校と違い、中間試験はなくて学期ごとの期末試験だけですね。これを嬉しいと思う人も、そう思わない人もいるでしょう。落ち着いて、学校のテストは何のためにあるのか、と考えてみましょう。学校のテストはクラスの仲間と得点を競って平均よりも上の人と下の人を分けるためにやるものではないはずです。学期の勉強の振り返りをしたり、自分の理解を確かめたりするためのものです。もしテストが勉強を嫌いにさせているのだとしたら、とても残念なことです。
私は勉強が好きになったり嫌いになったりするのは仲間の影響が大きいと考えています。クラスの中に勉強が好きな仲間がたくさんいれば勉強が好きになる。勉強が嫌いな仲間が多ければ勉強が嫌いになる。テストの点数が良くても良くなくても、勉強の好きな仲間が多ければ次もしっかり準備しようと思えるのではないでしょうか。
少し難しくなりますが、ここで大事なことは、私たちは周りの仲間から大きな影響を受けるけれど、そのとき皆さん一人ひとりがクラスの誰かにとっての「周りの仲間」だという点です。周りの空気の影響を受けるけれど、自分自身もその空気を作っているということです。世中のクラスは勉強の好きな仲間が多いと私は思っていますが、たとえば高校生になったとき、勉強が嫌いな空気の強いクラスで過ごすことになるかもしれません。そういうときにどうしたら良いのでしょう?
日本は入学試験システムをとっています。去年一度昼礼で話したので1年生にはお話していませんが、たとえばドイツという国には基本的に入学試験というものがありません。日本では入学試験のために勉強する、試験がなければ勉強しないという子どもがたくさんいます。しかし、世界の多くの子どもたちは違います。私たちはなんのために勉強するのか、皆さんもテストがなければ勉強しないのか、時々、考えてみてほしいと思います。
2023年6月12日 【日本の子どもは勉強が嫌い】
皆さん、今から一つ質問をします。ちょっと考えて、手を挙げてください。
「勉強が嫌いですか」と聞かれたら、「はい、嫌いです」と答えますか? それとも「いいえ、好きです」と答えますか?
ぱっとみた感じでは、1年生は「嫌い」という人はそれほど多くないけれど、3年生は結構「嫌い」という人もいるみたいですね。
日本の子どもたちの感じ方についてベネッセさんという会社が東京大学の研究所と協力して行った調査の結果がこれです。
出典:https://berd.benesse.jp/up_images/research/2016_oyako_web03.pdf
小学生では「勉強が好き」な子どもが多く、中学1年生でもまだ「勉強が好き」の方が少し多くなっています。中学2年生から「嫌い」な生徒の方が多くなり、以後「好き」の方が多くなることはありません。さっき皆さんに手を挙げてもらったときの様子と似ていると言えるかもしれません。
これを見て、「日本の子どもたちは中学生以後は勉強が嫌いになる」と言えるかどうかは、よく考えてみる必要があります。もしかすると、世界中の国で日本と同じように中学生以後は勉強が嫌いになるのかもしれません。もしそうだとすると、それは中学校になると勉強が難しくなるから「勉強が嫌い」と思う子が増えるということかもしれません。
しかし、その仮説は正しくないようです。皆さんは「PISA」という国際調査の名前を聞いたことがありますか? 3年に1回、OECD、経済協力開発機構というところが実施している国際的な学力調査がPISAです。PISA調査の対象は満15歳の生徒で、日本の場合は高校1年生になります。PISA調査には勉強や生活に関するアンケートのような部分も含まれているのですが、それによって日本の子どもたちは勉強が嫌いで、勉強が社会に出てから役に立つと思っていない割合が世界的平均と比べてはるかに多いことがわかっています。しかし、学力調査の成績そのものはいつも世界のトップレベルです。
つまり日本の子どもたちは「勉強がよくできる、けれど嫌い」というとても珍しいタイプだということです。どうして、そうなんでしょうか? いろいろな理由が考えられるでしょう。実はこれについては最も有力な説明というものがひとつあります。それについては、次の昼礼で話すことにしましょう。皆さんも、どうして勉強が嫌いになるのか、少し考えてみてください。
2023年5月22日 【広島に行ってきました】
皆さん、こんにちは。今日はちょっと硬い話をしますね。
先週、広島でG7という会合が開かれて、アメリカの大統領やイギリスの首相が日本に来ました。広島では原爆記念公園や平和記念資料館を訪問したというニュースも流れていましたね。
皆さんは広島へ行ったことがありますか? 私は教育学の学会の会合で何回か行ったことがありますが、いつも広島の中心から少し離れたところにある広島大学という大学に行っていて、広島の中心部には行ったことがありませんでした。でも今年の3月に、初めて広島の中心部に行きました。
宮島というところに行って、海の中に立っている大きな鳥居(厳島神社ですね)を見たあと、広島市内で平和記念公園から平和記念資料館をざっと見て歩きました。写真や映像ではもちろん見たことがありましたが、実際にいってみることは大切だと感じました。広島城という城が原爆投下まで現存していたということも初めて知りました。
いま、ウクライナとロシアの間に戦争状態が続いています。私たちの住んでいる日本は第二次大戦、太平洋戦争のあとは直接的な戦争の舞台となったことはありません。ほとんどの皆さんは戦争を身近に感じたことはないでしょう。私自身、戦争を具体的には知りません。平和な状態が決して当たり前のものではないということをしっかり意識して、平和の大切さを皆さんにも考えてもらいたいと思います。
今日は私が先日広島に行って感じたことをお話しました。
2023年5月15日 【心の身長を伸ばす読書のライバル】
皆さん、こんにちは。今日は「心の身長を伸ばす」話の続きです。先々週、本を読むと、心の身長が伸びるよ、という話をしました。いま図書館のカウンターにミッフィーがおいてあって、何冊かの本の上に乗っていますから、図書館に行ったときに見に行ってみてください。
さて、新しいことを取り入れるなら、なにも読書じゃなくてもいいんじゃない?と若い人たちは考えるかもしれません。本のライバルになるのはYouTubeと漫画です。新しい知識に触れたり、物語で自分の体験できない世界に触れるなら、YouTubeや漫画の方がいいかもしれない。そう思う人もいるかもしれません。
私もYouTubeはいろいろ見ます。とても便利です。とても便利なYouTube、テレビも含めて考えるとして、その特徴は、見る側が受け身でいられるというところです。つまり何も考えないでボーッと見ることができます。面白くて、新しい情報がたくさん得られることもありますが、見終わったけれど何も残っていないということもよくあります。これが「受け身でいられる」ということです。
漫画はちょっと違います。私自身、漫画もたくさん読んできました。漫画の場合、自分でページをめくって読んでいなかければならないので、そういう意味では受け身ではいられません。積極性が必要です。それでも私は普通の本と漫画には違いがあると思っています。漫画の特徴はなんといってもビジュアルな要素があることです。それは漫画の良さでもあるし、欠点でもあります。伝えようとしていることがビジュアルによくわかるというのが漫画のよいところですが、逆にビジュアルがあることによって読み手の想像力が必要ではなくなります。この主人公はどんな人だろうかと想像するまでもなく絵が見えるから、もうそれ以外の想像はできません。本の場合、挿絵は少しあるかもしれませんが、私たちは人の顔かたちや場面を想像しなければなりません。人それぞれにいろいろな想像をするでしょう。そこに本を読むことの面白さがあります。また、多くの事柄を正確に伝えるという情報の密度と正確性でも、本はすぐれています。
つまり、私はYouTubeは一切見ない方が良い、漫画は絶対読まない方がよいとは思いませんが、心の身長を伸ばすのに一番良いのは「本を読むこと」だと考えています。
2023年5月8日 【運動会は日本独特】 *運動会の全体練習の前に@校庭
皆さん、こんにちは。今日はこのあと運動会の全体練習ですね。今年はほぼ制約のない形で運動会を実施できる見込みです。大変嬉しく思います。引き続きコロナ対策も徹底して、よい運動会を作ってもらいたいと思います。
本校の運動会の目的は3つあります。ちゃんと頭に入っていますか? 簡単に言うと、体力をつくる、集団で協力する、ルールを守る態度を育てる、です。こういう目的をもって行われる運動会が世界的にみるととても珍しい学校行事だということを知っていますか?
日本で普通に見られる運動会は、だいたい日本で学校教育が始まった明治時代から今のような形で行われてきています。戦争の時期には性格を変えましたが、ふたつの組に分かれて勝負を争ったり、事前に練習したり、きちんと整列して行進したりするスタイルの運動会は、戦後ずっと行われてきています。海外ではこうしたタイプの運動会は、私の知る限りでは、ありません。運動会という名前で学校行事があったとしても、それはいろいろなスポーツに親しむレクリエーションだったり、競技の記録会だったり、要するに「運動する日」です。
世中の運動会は紅白ではなく四色対抗で、また応援合戦も大きな見どころ、頑張りどころですね。3つの目的を少し意識しながら、しっかり準備をしていきましょう。
2023年5月1日 【読書は心の身長を伸ばす】
皆さんこんにちは。4月は昼礼がありませんでしたから、1年生は今日が初めての昼礼ですね。附属世田谷中学校では朝礼ではなく昼礼をやるシステムになっています。だいたい私は3分から5分くらい、自分の考えた話をすることにしています。
今日はここにひとつ、人形をもってきました。皆さんの方からはよく見えないと思いますが、ミッフィーの人形です。このミッフィー、身長は8センチくらいです。このミッフィーから見ても、あまり遠くは見えません。せいぜい20センチか30センチくらい先までしか見えていないでしょう。なにしろ身長が低いですから。
もっと身長が高くなれば、もっと遠くまで見通せるようになるかもしれません。しかしここで私が言いたいのは、「背が高い人は遠くまでよく見える」ということではありません。いまここに何冊か本を持ってきています。この本の上にミッフィーを乗せると、少しミッフィーの目の位置が高くなって、少し遠くまで見えるようになります。もう一冊本を重ねると、もっと高くなって、もっと遠くまで見えるようになります。
もう気づいている人も多いと思いますが、今私が話しているのは「比喩」です。実際に本の上に乗るということではありません。去年も何度か本の話をしましたが、皆さんは本を読むのが好きですか? 本を読むことの一番の魅力は、【心の身長が高くなる】ことです。新しい考え方や見たことのない世界に触れて、ふだんの日常生活では得られないものを得ることができます。私は自分の仕事柄、本をたくさん読んで生きてきましたが、自分の仕事に直接関係しない本を読むことも大好きです。
背の高い人もまだこれから伸びる人も、今よりもっと遠くが見えるように、読書でどんどん心の身長を伸ばしていってほしいと思います。
2023年3月31日 【ずっと、先生になりたかった】 *緑友会新聞委員会発行『緑友』74号原稿
高校生の頃からの友人が何人かいる。大学院生を経て職に就いて数十年、今でも時々集まることがある。その中のひとりが会うたびに私に向かって言う話がある。「前原は、いつになったら先生になるんだい?」
私は中学生の頃から学校の先生になりたいと考えていた。高校生の頃は周囲にもはっきりそう言っていたようであり、希望する進学先も東京学芸大学しか考えなかった。高校までは千葉県に住んでいた。田んぼと梨畑ばかりあるような地域に住んでいたせいか、東京の中央線沿線の中では少し田舎に属する武蔵小金井・国分寺も充分に都会に感じられた。その頃、吉祥寺の井の頭公園付近を舞台にしたテレビドラマが流行っていた。その頃の自分が吉祥寺の風景にマッチしていた自信はまったくないけれど、吉祥寺周辺を歩くのが好きだった。
大学で先生になるための勉強をしている途中でもっと教育学の勉強がしたくなった。大学院へ進学して、できれば外国にも行って、教育学を教える人になりたいと思うようになった。大学を卒業して大学院へ進学して十年後、教育学を教える人になれた。外国留学の夢がかなったのは、さらに約十年後だった。
人生の途中でかたちを変えた夢、あきらめた夢ももちろんある。でもずっと、教師になりたいという夢は心の中にあった。大学院生のときは学習塾の先生をしていたし、大学教授の職も教師といえば教師だけれど、やはり少し違う。派手なところはないけれど、自分の学校、自分の教室で子どもたちが学び育っていく様子を見守る教師の仕事には、他の仕事とは比べることのできない魅力があると思う。
予想だにしないタイミングで附属中学校の校長先生になってほぼ一年。私は今、毎日の授業を担当することはないけれど今までの職業人生の中で一番教師に近いところで仕事をしている。先生方の仕事の質と量に学ぶことが多い。冒頭の友人たちに今度会ったら、いま中学校の校長なんだよ、と私から話すつもりだ。少し若き日の誓いに近づいたことを褒めてもらえるかもしれない。
とはいえさらに問題がある。どうやら高校生の頃の私は、「離島に行って教師になる!」とも言っていたらしいのだ。世田谷は、どう控えめに見ても離島ではない。ここはひとつ世界規模で見てもらって、アジア大陸の東端の離島である日本列島の勤務だということで理解を求めたい。
2023年3月17日 【令和4年度終業式】
皆さん、おはようございます。今日でこの附属世田谷中学校の一年間が終わります。すでに3年生は一足先に卒業して今日はいませんが、2年生と1年生の皆さんのこの1年間はどうだったでしょう?
明日から春休みになります。春休みは約3週間あります。夏休みよりは短いけれど、冬休みよりは長いお休みです。春休みを迎えるにあたって私から皆さんにひとつ提案があります。それはなんでもよいからなにか一つ、新しいことを3週間続けてみるということです。毎日新聞を読んでみる、御飯のあとに食器洗いを手伝う、英語のリスニングを5分くらいやってみるなどなんでも構いません。私なら、最近お腹が出てきたので寝る前に腹筋を一日10回くらいやろうかなと考えています。3週間やったって、それくらいじゃ大きな変化なんて出てこないかもしれません。確かに変化は小さく思えるかもしれません。しかし3週間続けられれば、その後も続けられるでしょう。小さな変化でも続けていれば大きな変化になります。
何をしたらいいんだろう? 勉強でしょうか? 誰かに「やりなさい」と言われてやると、あまりやる気が出ません。そういうのを「やらされ感」と言います。やらされ感を感じながらやったのでは、意味がありません。やりなさいと言われたから、誰かに決められたからやるのではなく、自分で考えて決めたことを3週間、続けてみてほしいと思います。
次に皆さんにお会いするときは、1年生は2年生に、2年生は3年生になっています。1年生は世中での1年間を振り返って、2年生は世中での残り1年間を見据えて、成長した姿を見せてほしいと思います。
2023年2月20日 【化学の本を読みました】
今回は、前回の本の話の続きのような話をしたいと思います。
私が本の話をすると、「自分は文系というよりは理系だから、あまり本は好きじゃない」と思う人もいるかもしれません。私は教育を研究する者としては、とても早い時期に「文系/理系」を分けて学ぶカリキュラムを別建てにしたがる日本の学校教育のスタイルには賛成できないと考えていますが、その話はいずれまたしましょう。
今日は何年か前に買って最近読んだ理科の本を持ってきました。『化学が好きになる数の物語100話』(ジョエル・レビー、NEWTON PRESS)です。だいたいタイトルから予想される通りで、化学の歴史の中で大きな意味を持った「数字」に関するエピソードを1ページから4ページくらいで紹介しています。
数字は1から順に並べられているわけではなく、ばらばらですが、たとえば「5」では「アリストテレスの宇宙論における元素の数」が説明されています。アリストテレスは古代ギリシャの哲学者ですが、宇宙を5つの元素で説明するというアリストテレスの理論は15世紀後半まで、二千年近く信じられていたそうです。
だいぶ読み進めると、「76」には「トリチェリが発見した気圧計の水銀柱の高さ(cm)」の話が書かれています。トリチェリという名前は知りませんでしたが、ガリレオのお弟子さんのようです。「空気圧」というものの存在、「真空」というものの作り方の発見などのエピソードを知ることができます。面白い。しかし、何かの役に立つことはない知識かもしれません。「1869」というページには「メンデレーエフが周期律を発見した年」という話が書かれています。なるほどなるほど。
私には理解できない数字の話もたくさん出てきます。どの話も実際の理科の勉強の役に立つ可能性は低そうだし、実生活の役にも立たないでしょう。それでもいろいろな科学のエピソードを知ることで、科学の研究がどんな風に進歩してきたかを知ることができます。科学って面白い、知らない世界が少しずつ明らかになるって面白いて思えてきます。世中の図書館にも科学の本もたくさんありますから、物語のような本は好きじゃない人、図書館にはあまり行かないよという人も、是非図書館をのぞいてみてください。
<補足:蔦屋書店@柏の葉>
昼礼では触れませんでしたが、この『化学が好きになる数の物語100話』を買った本屋さんは「柏の葉」という千葉県柏市の駅の近くの蔦屋書店です。その近くの高校に出張講義で出かけた帰り道に、「千葉県で一番素敵な蔦屋書店」という触れ込みにひかれて寄りました。スターバックスもあります。ちょうど12月だったので、店の中央に大きなクリスマスツリーが置かれていました。別に化学の本を買うつもりはなかったのですが、棚をみているうちについつい手にとって、そのまま購入しました。もしこの日、この場所で手に取らなかったら、一生出会うことはなかったかもしれません。そんな偶然も本屋さんの楽しみです。
2023年2月13日 【#木曜日は本曜日の話】
先日、ちょっと買いたい本があって池袋の大きな本屋さんに行きました。欲しかった本はなかったのですが、目についた本を何冊か買いました。本屋さんの中を歩いていたら、目の横の方で何か気になる物が見えたような気がして戻ってみたら、「東京松岡茉優書店」というポスターでした。
私は最近はあまりテレビを見ないのですが、松岡茉優さんは名前と顔を知っていました。どうやら(どちらかというと若い世代向けに)著名人が一人で本を10冊紹介するという企画のようで、木曜日ごとにポスターが変わるみたいでした。私と松岡さんとはもちろんだいぶ世代が違いますが、挙げられていた10冊の中に読んだことのある本が1冊ありました(下記、補足参照)。山田詠美さんという人の『放課後の音符(キーノート)』という本です。東京都書店商業組合という東京都内の本屋さんの団体によるこの「木曜日は本曜日」という企画、ほかにも合計20人の著名人の「私を変えた10冊」が紹介されています。多くの本屋さんで週替りでその10冊が目につくところに並べられています。ちょうど自由が丘駅前の不二屋書店さんもこの企画に参加しているようで、ポスターが貼ってありました。
家に帰ってから調べたら、この本屋さんの企画はYouTubeとも連動していて、松岡茉優さんが「都内で一番好きな本屋さん」を訪ねて好きな本の話をするという小さな映画のようなビデオも見ることができました。私も本屋さんという場所がとても好きだという話を皆さんにしたことがありますが、実は「この本屋さんへ行くのが大好きだ」という本屋さんがいくつかあります。そうはいっても最近ではamazonのようなネットの本屋さんで本を買うことも増えました。しかしやはり、実際に本屋さんに行って書棚や壁のポスター、その本屋さんの推している本などを眺めるのは楽しいものです。皆さんは、本屋さんがたくさんある地域に住んでいるのですから、ときどきは本屋さんに行ってみてはどうでしょうか。
<補足:松岡茉優さんの人生を変えた10冊>
『とにかくさけんでにげるんだ』ベティー・ボガホールド
『ドミノ』恩田陸
『きみの隣りで』益田ミリ
『おしゃべりなたまごやき』作:寺村輝夫 絵:和歌山静子
『あたしンち SUPER』けらえいこ
『こっちむいて!みい子』おのえりこ
『夜廻り猫』深谷かほる
『放課後の音符』山田詠美
『自分の感受性くらい』茨木のり子
『料理と利他』土井善晴/中島岳志
*YouTubeの企画連動ビデオをみたら、山田詠美さんの別の本について熱く語っています。中学生の時に受けた模試の問題の中に出てきた文章がとても頭に残り、あとになってそれが山田詠美の「風葬の教室」の一部だと知ったというお話。
2023年1月8日 【3年生始業式】
明けましておめでとうございます。
今年は3年生だけ一足早く始業式ですね。これからそれぞれの高校入試に臨む皆さんに向けて、ひとつだけ強くお伝えしたいことがあります。以前、ドイツには日本のような大学入試はないという話をしたことがあります。実は高校入試にあたるような試験もありません。大学に行こうと思う人はギムナジウムというタイプの中学校と高校がくっついたような学校へ行きます。中には300年の歴史のあるギムナジウムもあれば、有名な科学者が何人も学んでいたという学校もあります。そういう学校は人気があって入りたい人がたくさんいるはずだと思うかもしれません。しかしドイツでは定員よりも多くの人が応募してきても、入試のようなものは行いません。
定員より応募者が多かった場合、ギムナジウムが入学者を決めますが、そのとき考慮されるのは原則として「兄姉が在学しているか」と「家からの距離」だけです。そのほか例外的に、その学校が提供している外国語を母語としてる場合などが考慮されるようです。いずれにしても、いわゆる学力試験はありません。皆さんには、何だか奇妙に聞こえるかもしれません。
日本は学力試験のある国ですから、試験に合格しなければ自分の学びたい高校で学ぶことができません。高校を受験する皆さんには、体調にしっかり気をつけて、自分の力を発揮してほしいと思います。そう願いながら、同時にもう一つ、とても大事なことを伝えておきたいと思います。それは自分の進む高校や大学の名前によって自分の人生が決まってしまうなどということはないということです。私は大学でやる講義の中で学歴社会について触れることもありますが、とても多くの大学生がまるで大学の名前で人生がほとんど決まってしまうような意見を口にします。しかし、そんなことはありません。高校や大学で何をどれほど学ぶかの方がはるかに重要であることは、疑いありません。
高校の名前で人生が決まったりはしない、という話をしました。しかし、矛盾して聞こえるかもしれませんが注意して聞いてください。繰り返しますが、今、自分の行きたい高校があって試験に臨むならば、自分の目標のために全力で頑張ってほしい。皆さんの健闘を祈っています。
2022年12月19日 【終業式】
短く話したいと思います。
1学期の終わりには、目の前に広がる夏休みの過ごし方を考えることが多いでしょう。つまり前向きな感じです。3学期つまり1年間の終わりには、その学年の収穫について考えることが多いように思います。つまり後ろを振り返る感じです。それらに対して2学期の終わりは12月ということでその年を振り返り、同時にお正月が来るので次の年のことを考えるという「両睨み」な感じがします。
こう感じるのは私だけではありません。皆さんは1月を英語でJanuaryと呼ぶことは知っていると思います。このJanuaryは、これも知っている人もいると思いますが、ギリシャ神話のヤヌスという神様の名前に由来しています。ヤヌスは前向きと後ろ向きの2つの顔を持つ神様です。ギリシャ神話の時代から、12月は後ろを振り返りながら同時に前を向く時だったということでしょう。
そんなわけで今日で2学期が終わって冬休みになり、お正月を迎えますが、皆さんもこの2022年がどんな年だったかを振り返って、また2023年をどんな年にしようと思うかを考えてみてください。
皆さん、どうぞよいお年を。
2022年11月21日 【自由な学校】
皆さんがいま学んでいる附属世田谷中は、とても自由な学校だとよく言われます。皆さん自身もそう感じているかもしれません。しかし、この「自由な学校」とはどんな意味なんでしょうか? 本校には制服があるので、服装は自由ではありません。それほど厳しい服装チェックがあるとは思いませんが、時々注意を受けている場面を見たりもします(その意味では、体育着はほぼ完全に自由です。基本的には何でもOKでしょう)。自転車通学は禁止されていますし、通学途中の買い食いなども禁じられています。学校にいる間はスマホを使ってもいけません。「不自由」なことだらけです。なにがどのように「自由」だというのでしょう?
こんなふうに言ったからといって、私はこの附属世田谷中が不自由な学校だと言いたいわけではありません。そこを聞き間違えないでくださいね。私も確かに附属世田谷中は自由な学校だと思います。その場合、自由というのは、自分の好き勝手にしてよいという意味の自由ではないという点が肝心です。
私たちの学校の自由というのは、自分で考えて提案して動くことができるという意味での自由だと思います。少しややこしいですね。たとえば「自由にピアノが弾ける」というのはどういうことか、考えてみましょう。「お金を払わずに無料でピアノを弾いてよい」という意味も考えられますが、これはわかるでしょう。自由にピアノが弾けるというとき、ピアノの鍵盤を自由に叩きまくっていろいろな音をガチャガチャと出す状態のことを考える人はあまりいません。自由にピアノが弾けるというのは、きちんと練習を重ねてそれなりの技術を身に着けて、楽譜に沿って、そこそこ間違えずに弾けることでしょう。これを不自由と呼ぶか自由と呼ぶかは難しい問題かもしれませんが、自由にピアノが弾けるというのは、ピアノ演奏というある意味では不自由な枠の中で、自分の気持ちのおもむくままに演奏ができることです。
附属世田谷中には、生徒の皆さんが守らなければならないルールはたくさんあります。しかしそれらのルールは皆さんの学校生活を意味もなく制約するものだとは思いません。そうであればこそ、生徒の皆さんが様々な場面で、まさに自由にピアノを弾くように、提案したり工夫したり考えたりしながら行動することを求められることが多く、それが「自由な学校」というイメージにつながるのでしょう。
今日はいつもよりちょっと難しい話に聞こえたかもしれません。
*事後の補足。今の日本では、「自由な学校」というと「時間割がない」「学びたいことを自分で決めて学べる」といった方向を連想することが多いように思います。アメリカのチャータースクール一般をそういうものと誤解したり、ドイツ由来のシュタイナー学校を(こちらはそれ自身が「自由への学び」を標榜していることもあって)そうしたタイプのものと思い込むことが多いようです。アメリカのチャータースクールの中には確かにそうしたタイプのものもあるようですが、ほとんどはそうではありません。シュタイナー学校は明確なカリキュラムと規律があり、むしろ教師主導型の授業をやっています。私自身は、学校という枠組みの中で「自分の学びたいことを自分で選ぶ」というのは論理矛盾を含むと考えています。
2022年10月21日 【「大丈夫、行こう、あとは楽しむだけだ」(YOASOBI「群青」から】
*芸術発表会パンフレットに掲載した校長挨拶
1学期の運動会と並ぶ本校伝統の学校行事、2学期の芸術発表会が始まります。引き続き若干の制約は残っているものの、ほぼ思い描いていた通りの規模で芸術発表会が開催できますことをとても嬉しく、ありがたく思います。コロナ禍の影響により、準備の過程でもなかなかクラスの全員が揃わないこともあったと思いますが、そうしたプロセスも含めてクラスの団結を深める機会となったことでしょう。
私はこの4月に本校の校長になりました。そのためこれまでの芸術発表会についてよく知りません。映像化された記録をみて概要を知ることもできたかもしれませんが、あえて見ないようにしてきました。映像を見てしまうと、今年初めて見て、聴くときの気持ちの新鮮さが少し失われてしまうような気がしてもったいないと思ったからです。要するに、みなさんと同じように、あるいはそれ以上に、芸術発表会の集大成となる二日間を楽しみにしています。
芸術発表会は開催日の二日間だけのことを指しているわけではありません。いまこの原稿を書いているのは9月第3週、校舎のあちらこちらから合唱練習の歌声が聞こえ始め、時折のぞく教室では大量の色紙をカットしている様子を見かけます。どちらも最終的にどんな姿になるのか、私はまだよく想像できていません。どうなるのでしょう? 実は生徒の皆さんも、練習と制作に取り組んでいる過程ではどんな仕上がりが待っているのか、よく見えているわけではないかもしれません。先の見えない作業と練習の日々のあとで、完成した姿を披露して初めて自分たちが力を合わせた結果の素晴らしさに驚き、自分たちの中の潜在的な可能性に気づく。芸術発表会の期間はそんな時間でもあると思います。
表題はYOASOBIさんの「群青」という歌からとったフレーズです。すでにクラスの壁画は完成したはずです。展示発表や合唱祭に向けて精一杯の準備を終えたら、あとは本番に臨むだけです。実りの多い芸術発表会となることを楽しみにしています。
2022年10月3日 【ベルリンの壁(本物)】
今日、10月3日が何の日か知っていますか? 「ドイツ統一の日」です。皆さんはリアルには知らないかもしれませんが、戦後しばらくの間、ドイツという国は西ドイツと東ドイツに分かれていました。西ドイツは西側つまり資本主義、自由主義陣営の一員で、東ドイツは東側つまり社会主義陣営の一員でした。私が大学生だった1980年代ころには、まさか東ドイツがなくなってドイツが統一される日がそんなにすぐにやってくるとは誰も考えていませんでした。しかし1989年ころから突然のように社会主義陣営が崩れ、東西ドイツが統一され、ソ連は崩壊して現在のような形になりました。
いまここに持ってきたのは、ドイツ統一まで、西ベルリンを取り囲むように作られていた、とても有名な「ベルリンの壁」の一部分です。ベルリンの壁は、要するにコンクリートのかたまりですが、西ベルリンの側の壁は色とりどりにペンキでたくさん落書きされていたんです。東西ドイツが統一されてベルリンの壁を取り壊した時に、壁を壊した瓦礫を観光客向けに売り始めた人たちがいて、ただのコンクリートの破片みたいなやつが1マルクとか2マルク(そのころはまだEUの共通通貨であるユーロの導入前で、その頃のドイツのお金が「マルク」です)、プラスチックの台につけて10マルクとかで売っている人もいます。東ドイツの人たちが資本主義の精神を学ぶ絶好の機会になっているなどと言われてもいました。
私はドイツの学校や教育について研究していますが、ちょうど1991年の夏に初めてドイツへ行きました。ベルリンの町の中心の大通り沿いで、そんなコンクリートの瓦礫を積み上げて、ベルリンの壁の破片がお土産として売られていました。いまここにあるのは、その時たぶん1200円くらいの値段で買ったものです。色の付いている部分が、西ベルリン側の壁だったことを示しています。(自分でコンクリートに色を付けて叩き割ればいくらでも生産できるので、本物かどうかはわかりませんが。)このあとしばらく、図書館のカウンターのそばに置いておきますので、興味のある人はよく見てみてください。
ベルリンの壁の破片を見ながら皆さんにぜひ考えてみてもらいたいことがあります。このあと世界がどうなるのか、ということです。もちろん未来のことはわかりません。私が若かった頃、東西冷戦構造がこんなにあっさりとなくなっていくとは、専門家も含めて、誰も考えていませんでした。しかしある日突然のように世界は動き始めて、予想もできなかったことが現実になりました。今も世界は不安定な情勢にあります。今後の変化はやはり予想できません。毎日のニュースにもぜひ関心をもって、私たちの(というより皆さんの)未来について考える時間を持ってもらいたいと思います。
2022年9月26日 【時の流れの速さについて】
今日は教育実習生の皆さんも昼礼に参加しているので、大学生にも中学生にも伝わるような話をしたいと思います。
よく、「年をとると、一年が過ぎるのが速く感じる」と言います。私はもう60歳を超えていますから、皆さんよりもかなり速く一年が過ぎていってしまうのかもしれません。どうして年をとると一年を速く感じるのか、2つの説明があります。
1つ目は、「その人の生きてきた時間に対する1年間の比重が小さくなるから」というものです。10歳の子が11歳になるまでの1年間は、人生の1割に相当します。かなりの重みがあります。それに対して60歳にとっての1年間は人生の60分の1ですから、重みはかなり小さくなります。そんなわけで、年をとった人にとっては1年という時間の経過は小さく、速く感じられるというわけです。
2つ目は、「年をとると、新しい情報を取り入れることが少なくなるから」というものです。子どもたちにとっては毎日毎週が新しい出来事で満ち満ちているのに対して、年をとった人にとってはそうでもありません。1年間のあいだ、何も新しい情報を吸収することがなければ、その1年はあっという間に過ぎていったように感じられるでしょう。
今日この話をしているのは、この学校で過ごす時間をどのくらい速く感じたかを考えてもらいたいからです。時間の流れる速さは客観的には同じかもしれませんが、一人ひとりの感じ方は全然違います。同じ時間の中で何を得るのかも、一人ひとりで全然違います。教育実習生の中にもとても多くの学びを得る人もいたでしょうし、もしかするとあまり学びが得られなかった人もいるかもしれません。実習生の皆さんは、そんな観点からも実習を振り返ってみてはどうかなと思います。
ついでに、私が大学生の時にやった教育実習の話をしたいと思います。
私は学校の先生にはならずに大学の教員になりましたが、大学のときには先生の免許を取るための教育実習に行きました。小学校の実習は附属大泉小学校に行き、そのあと都内の普通の小学校にも行きました。もうひとつ、附属竹早中学校にも行きました。小学校ではすべての教科をやりますが、中学校で担当した教科は国語です。
その時担当した国語の教材は、石垣りんという詩人さんの、「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」という詩です。詩の内容は、今でもよく覚えています。男性と女性の社会の中での役割について日常の言葉で語ったような詩で、自分なりに準備して授業をしたのですが、女子生徒さんたちからはキツい意見も出ました。この詩は、炊事はこれからも女性の仕事として大事にしていきたいといった感じのことが書かれていて、それはどうなんだというところが論点でした。
もう40年も前のことですが、今でもよく覚えています。一生懸命準備したからかな、と思ったりもします。私はその後国語の授業をする人にはなりませんでしたが、いまこれを読んでもいい詩だな、でも難しいな、と思います。いま教育実習に来ている皆さんが、40年後に自分の教育実習の授業を覚えているかなということでもあります。覚えているかどうかはさておき、せっかくの教育実習ですから一生懸命準備して授業に臨んでほしいと思います。よろしくお願いします。
【補足として、石垣りんさんの上掲の詩を貼り付けておきます。】
私の前にある鍋とお釜と燃える火と
石垣りん
それはながい間
私たち女のまえに
いつも置かれてあったもの、
自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には
母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。
その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
ある時はそれが赤いにんじんだったり
くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚だったり
台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意のまえにはいつも幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた。
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ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など
繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿。
炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と
それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう、
それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あって励むように。
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2022年9月12日 【自分史上最高を狙え!】
このところ、部活の野球、サッカー、バスケットボールの対外試合をいくつか観る機会がありました。勝ち負けはいろいろですが、試合に出た選手は皆頑張っていたし、どのクラブもベンチの雰囲気もよく、とても嬉しく思いました。「今、見ましたか? 素晴らしかったですね!」と思わず言いたくなるプレーを見ることもできました。
自分自身のことを振り返ってみると、私は中学生の時は少しだけ、高校の時はそれなりに一生懸命に卓球部で卓球をしていました。勝ち抜いた記録のようなものは何もありません。それでも、高校の時のあの試合のあの少しの時間が「自分史上最高」のプレーぶりだったという記憶があります。他の人との比較や勝ち負けではなく、自分にとって一番いいプレーができた時という意味です。懐かしく、暖かい思い出です。
高校生の時に考えていたことではありませんが、今はこう思います。試合に出る時はいつでも、今日、「自分史上最高」のプレーをしようと思ってチャレンジするってとても大切。部活を頑張る人たちは、試合だけではなく練習の中でも、そんな「自分史上最高」を意識してみてはどうでしょうか。その「自分史上最高」の記憶が、皆さんにも残っていくんじゃないかと思います。
少し見方を変えてみると、「自分史上最高」は運動だけに言えることではありません。音楽や美術にも言えることは間違いありませんが、もう少し広げて、毎日皆さんが受けている授業にも言えるんじゃないかと思います。自分史上最高に一時間の中で理解が進んだとか、自分史上最高に真剣に実験、観察、話し合いに取り組んだとか。試験の点数とか合格不合格といったことは大事ではないわけではありませんが、試合で言えば勝ち負けのようなものかもしれません。もっと大事なのは、今日も「自分史上最高」を狙って授業に参加していくことだと思います。少しややこしい話になったかもしれません。
2022年9月5日 【「こんにちは」の不思議】
みなさん、「こんにちは」。
しっかり挨拶のできる学校って、とてもよいと思います。なかには挨拶の苦手な人もいるかもしれませんが、世界中どこへ行っても挨拶はとても大切です。さて今日は、日本語の挨拶の不思議な性質について話をしたいと思います。
皆さんは、朝起きて家族の顔を見た時になんと挨拶をしますか? おはよう、おはようございます、でしょう。そのあと学校に向かって家を出て、友達や先生に会った時は? やはりおはよう、おはようございます、でしょう。夜、寝る時はどうでしょう? 家族には「おやすみなさい」と言うでしょう。友達や先生にも「おやすみ」「おやすみなさい」と言いそうな気がします。
少しお昼が近くなったあたりから夕方あたりまでの時間に友達や先生、知り合いに会った時はどんな挨拶をしますか? 「こんにちは」ですね。もう少し遅い時間になれば「こんばんは」や「さようなら」と言うこともあるでしょう。
しかし困ったことに、昼間の時間にたまたまどこかで自分のお父さんお母さん、お兄さんや妹に会った時は「こんにちは」と言うことができません。もちろん実際には「言う」ことはできます。しかし奇妙に響きます。日本語では「おはよう(ございます)」と「おやすみ(なさい)」は家族にも友人知り合いにも使えますが、「こんにちは」「こんばんは」は家族には使えないということです。代わりに使うことのできる挨拶のことばもありません。不思議です。
今度、自分の家族に「こんにちは」と挨拶してみてください。ちゃんと挨拶しているはずなのに、挨拶された家族は不機嫌になるかもしれません。
きょうは身近な挨拶にも不思議なことがある、という話をしました。
2022年9月1日(始業式)【収穫の二学期に】
皆さん、二学期が始まります。夏休みはどんなふうに過ごしましたか? 終業式の時に、私が消費的な時間の使い方と投資的な時間の使い方があるという話をしたのを覚えていますか? 消費は使ったらそこでなくなってしまうこと、投資は使った時間が成果を生んで戻ってくるような使い方です。
投資に時間を使えた人は、これからの「収穫」が大事になります。すぐに実りのみえないものもあるかもしれませんが、しっかり収穫していきましょう。消費にたくさん時間を使った人は、たくさんリフレッシュできて、新鮮な気分で二学期を迎えることができたでしょう。それも一つの過ごし方です。投資できなかったと後ろ向きに考えるのではなく、気分を切り替えて二学期の学習に取り組んでほしいと思います。
二学期の附属世田谷中は、学習も学校行事も盛り沢山です。すでに1学期の終わりから準備が始まっていると思いますが、世中の最大の学校行事のひとつ、芸術発表会があります。それぞれの役割をしっかり果たして、素晴らしい発表を作ってもらいたいと思います。2年生3年生は英語スピーチコンテストがあります。2年生の長瀞地学実習もあります。3年生にとっては高校進学を控えて中学の学習のまとめの時期にもなります。しっかり取り組んでください。
皆さんの中には、長い夏休みが終わって二学期になって、生活のリズムが整っていなかったり、からだの調子が悪いと感じているひと、なにか悩みを抱えているひともいると思います。気力体力いずれの面でも、なにか困ったこと話したいことがあるひとはいつでも担任の先生や各教科の先生、保健室や相談室の先生に話に来てください。
もう一つ、少し長くなりますが、「中だるみ」という言葉についてお話をしたいと思います。皆さんも「中だるみ」という言葉を聞いたことがあると思います。2学期はどうしても中だるみするから、しっかりしないと、などという形で使われます。ある程度の長さがあると、真ん中あたりで気合いが抜けてしまうという意味ですね。しかしここで不思議なことがあります。中学校3年間あると真ん中の2年生が「中だるみ」すると言われ、1年間で考えると2学期あたりが中だるみと言われ、夏休み期間で考えると真ん中のお盆休みあたりに中だるみとすると言われます。一週間で考えて水曜日あたりが中だるみするとか、一日のうちでお昼近くが中だるみとか。中高一貫で6年間続く学校に行っていれば、3学年目と4学年目が中だるみです。
どう思いますか? 結局、なんだかんだでずっと中だるみし続けているように聞こえませんか?
面白いことに、中国や韓国を含めて、外国には「中だるみ」にあたる言葉はないようです。少なくとも、日本のようにとにかくなんでも中だるみ注意報を出しておく、みたいな使い方はありません。ドイツには9年間続くギムナジウムという種類の学校がたくさんありますが、9年もあると先が見えなくて中だるみ、みたいな話は聞いたことがありません。
となると、「中だるみ」は日本列島の子どもたちに特有の風土病のようなものなのでしょうか? そんなはずはありません。私は「中だるみ」などという言葉を使うから、本当に中だるみしてしまうのだと考えています。皆さんにも、「2学期だから中だるみ」などと考えてほしくありません。最初に話した通り、世中も2学期は盛り沢山です。しっかり充実した時間を過ごしましょう。
2022年7月19日(終業式)【夏休みの過ごし方】
今日で二学期も終わりです。まだまだコロナ対策に気をつけながら、実りの多い夏休みを過ごしてもらいたいと思います。今日は夏休みの時間の使い方についてお話をしたいと思います。
時間の使い方には「消費的な使い方」と「投資的な使い方」があります。消費的な使い方というのは、その時楽しく時間を過ごして、楽しい記憶や思い出は残るけれど、それっきり消えていく時間の使い方です。投資的な使い方というのは、その時使った時間が未来の自分に少し大きな成果として戻ってくるような時間の使い方です。
夏休みは自由になる時間が普段よりも多くなるでしょう。皆さんはどんな時間の使い方をしたいと思いますか? 「楽しく消費してリフレッシュ」する時間は必要です。そういう時間がなかったら、とても苦しくなります。しかし自由な時間を全部「消費」に使うのはとてももったいないことだと思います。二学期からの自分に帰ってくるような「投資」的な時間の使い方についても是非考えてみてください。
とはいえ、投資的な時間の使い方というのはたくさん勉強するということだけを意味するわけではありません。ふだんあまり本を読まない人が何冊か本を読んだり、映画を観たり、家族の人と一緒に旅行に出かけたりすることも投資的な時間の使い方になるでしょう。でもそうなると、消費と投資の区別がわからなくなるかもしれません。その時間をしっかり楽しんで心も体もリフレッシュして、同時のその経験がいつか活かせるようなものであれば、とてもよい夏休みになると言えるのかもしれません。よい夏休みを過ごして、また2学期に元気な姿をみせてください。
2022年6月13日 【大学入試がない国の秘密】
今日の話は先週の話の続きです。先週、ドイツには日本のような大学入試も大学の入試難易度のようなものがない、高校に当たる学校の修了試験に合格すれば、どの大学でも基本的に自由に選べるから、という話をしました。このやり方には、実は先週話さなかった秘密があります。ドイツでは、子どもたちは「10 歳」で大学へ進めるコースと進めないコー スに分かれることが一般的です(一部、これを12歳にしている州もあります)。大学へ進むコースの学校が、ギムナジウムと呼ばれるものです。
ギムナジウムへ行けば大学へ進むためのカリキュラムがあり、そうでない学校へ進めば16歳以後職業訓練へ進むことを想定したカリキュラムがあります。どちらのタイプの学校へ進むかを決めるのは、皆さんが予想するようなテストではありません。基本的に、学校の先生の助言を参考にして親が決めます。つまり「絶対にギムナジウム」と親が希望すればギムナジウムへ進むことができます。
「だったら、絶対にギムナジウムを希望するに決まっている」と思いますか? 日本の感覚ならそうでしょう。しかしもうひとつ、話していないことがあります。ドイツでは小学校段階でもその後の段階でも、留年制度があります。実際に留年する生徒も珍しくなく、6、7人にひとりは15歳までに一回以上留年を経験しているというデータもあります。学力面で無理があるのを承知でギムナジウムに進んだとして、留年しては意味がありません。同じ学年で2回留年すると、強制的に大学へ進まないコースの学校に転校しなければなりません。つまり親の希望で無理にギムナジウムに入れてもあまり意味がありません。今、ギムナジウムへ進むのはだいたい半分くらいです。したがって、大学進学率は50%もありません。日本では現役で、つまり高校を卒業してすぐに大学へ進む人が約60%、浪人も含めると65%か70%くらいの人が大学へ進みます。アメリカは計算が難しいのですが、80%くらいは大学または短大へ進みます。
皆さんは、やっぱり大学に進まないときちんとした仕事に就けないとか、将来の生活が心配になると考えるかもしれません。そこでもう一つドイツの秘密があります。ドイツでは、大学へ進まなくても十分に幸福に暮らせる社会インフラが整備されています。安くて質の良い公営の住宅が整備されていること、生活必需品が安いことなどです。学校の授業料は小学校から大学まで無料、あるいはとても低額(年間3万円とか5万円とか)です。ビールは大人の必需品と考えられているようで、日本の3分の1くらいの値段です。自分の生まれた町で、安定した仕事について、自分の人生を楽しむという暮らし方が普通に見られます。
こう考えると、私たちの国ではどうして学校にランキングを付けて入学試験をやって大学へ進むのか、不思議に思えてくるかもしれません。
2022年6月6日 【ドイツの学校制度】
今日は私が研究してきたドイツの学校の話をします。
最初に質問です。みなさんは、「生まれたのはどこですか?」と聞かれたらどう答えますか? 東京と横浜、川崎、ひょっとすると北海道。もう少し細かく答える人もいるかもしれません。もし「生まれたのはどこですか?」と聞かれて生まれた病院の名前を答えたら、少し奇妙に聞こえるでしょう。(*実際の昼礼でこれを前列中央の男子生徒に聞いたら、その生徒は病院の名前を答えました。びっくり。でもそれも話の脈絡にとっては有益でした。)
ドイツでは、「あなたの大学はどこですか?」と聞くと、ベルリンとかミュンヘンとか答えます。これはベルリン大学とかミュンヘン大学という意味ではないかもしれません。ベルリン大学もミュンヘン大学も歴史のある大きな大学ですが、ドイツの人は普通「大学の名前」を答えません。ベルリンとかミュンヘンとかいうのは、「自分が学んだ街の名前」です。ベルリンにもミュンヘンにも大学はいくつもあります。
そんなの変だ、と皆さんは思うかもしれません。「あなたの大学はどこですか?」と聞かれて「東京です」「京都です」と答えれば、日本ではほぼ間違いなく東京大学、京都大学のことだと思うでしょう。なぜドイツではこうなのか。実はドイツには日本のような大学入試がありません。高校に当たる学校(ギムナジウム)を修了すれば 大学はどこでも選び放題。医学のほかいくつかの分野では定員があって自由に選べないこともありますが、基本的にはどの大学でも自分で登録すればそこへ通うことができます。途中で他の大学へ移ることもできます。すぐ大学に行かないで少し年齢を重ねてから大学へ行くこともできるし、一度大学を終えて、かなりたってからまた大学へ登録して大学生になることもできます。したがって、大学ごとの入学レベルの違いのようなものはありません。だから、「大学はどこ?」という質問に意味があるとしたら、「どの街で勉強したか?」ということでしかありません。
私はドイツの大学教授とも少しつきあいがあります。卒業した大学はどこですか、と聞いたことがありますが、この質問はうまく通じていないようでした。どうやらドイツに限らず欧米の人たちは、卒業した大学の名前を聞かれるのを変なことだと感じるようです。それはちょうど、日本の私たちが「生まれた街」ではなく「生まれた病院」の名前を聞かれるのと同じような感じのようです。みなさんは、どう思いますか?
2022年5月23日 【練習も運動会の一部】運動会予行練習前の昼礼@校庭
いよいよ運動会が近づいてきました。今年はまだ制限付きの開催となりますが、従来の開催に近い形で開催できることを喜びたいと思います。
運動会というと、その日一日の行事のように考えがちです。確かに、「今年の運動会は、」と表現すればその日一日のことを指すことになります。しかし落ち着いて考えてみればすぐわかるように、運動会は一日で完結するわけではありません。クラスや学年ごとの練習や、組ごとの応援の練習、係ごとの打ち合わせで、もう何週間も皆さんは運動会に取り組んできました。そういう活動もすべて運動会の一部分です。
今日の予行練習も運動会の大きな一部です。いろいろな発見や学びがあると思います。実り多い一日にしてください。
2022年5月16日 【私の一番好きな場所、図書館】
この世界の中で、私が一番好きな場所は図書館です。そんな風に図書館のことが好きな人たちの間には、「本に呼ばれる」という体験を持っている人がよくいます。本に呼ばれる、というのは、何気なく本棚の前を歩いていると、なんだか本に声をかけられたような気がしてちょっとその本棚を方を見てみる、そうすると特に探していたわけでもない本がピカっと光っているような気がして手にとってみる、何ページか読んでみるととても興味深くて、まさに自分が探していた本はこれだ、というような気がする、ということです。その本をきっかけにして、今まで全然知らなかった分野に大きな関心を持つようになったり、将来の進路選びの材料になったりすることもあります。
私自身、子どもの頃から何回も、そんな風に「本に呼ばれる」経験をしてきました。大学院で研究をしていた頃は、ふと呼ばれた気がして手にとった本の中に、研究をすすめる大きなヒントがみつかったことも何回かありました。それは小さな奇跡と言って良いかなと思います。
この「本に呼ばれる」現象は、心理学的には「選択的注意集中」と呼ばれ、研究もされているようです。選択的注意集中は、たとえば沢山の人がザワザワと話をしている中でも自分が聞こうとしている人の声だけは聞き取れるような現象です。図書館の棚を眺めているときも、自分では意識していなくても網膜に写った本の題名に無意識に反応して、本に呼ばれているような気がするというように説明されます。
そうは言っても、私の個人的な感覚では、同じタイトルの本が並んでいる中の一冊を手にとってみたらその中にたまたま自分の関心に合う論文が入っていたりすることもありましたから、無意識に本のタイトルに反応したとも言えないんじゃないかなと思っています。いずれにしても、「本に呼ばれる」ことを小さな奇跡と思っておいた方が、図書館が楽しくなると思います。
実は、この世田谷中の図書館を初めて見に行ってぐるっと本棚を見て回ったときも、本に呼ばれたような気がしました。その本をちょっと手にとって少し読んでみて、面白そうだなと思って今度借りに来ようと思いました。今日、この話をしようと思って先週、もう一度図書館にその本を探しに行きました。しかし、本の題名を忘れてしまいました。メモもしていません。このあたりだったはずと思う書棚のあたりでもう一回、その本が呼んでくれないかなと思い、図書館の中を歩き回ったのですが、もう呼んでくれませんでした。大事な出会いだったかもしれないのに、もう会えないかもしれません。
皆さんも、そんな風に本に呼ばれる経験をすることがきっとあると思います。私は本屋さんも大好きで、本屋さんでも本に呼ばれることはありますが、図書館のいいところは気になった本をそのままそこで読むことができるということです。自分の視野を広げるために、どんどん図書館を使ってほしいと思います。
2022年4月25日 【イタリアの友人、マルコ】
私は授業を担当していません。そのため皆さんと直接話をする機会は多くありません。この昼礼では、なるべく私自身の考え方を皆さんにお話して、皆さん自身が考える材料にしてほしいと思います。
私にはマルコという名前の友達がいます。ちびまる子ちゃんではありません。イタリア人の男性です。知り合ったのは私が大学の先生になったばかりの30年近く前、ドイツのある田舎町のドイツ語の学校です。マルコは大学生でした。
私はドイツの学校の様子について研究しています。ドイツ語がもう少しうまくなりたいと思って、夏休みの4週間ドイツ語合宿に参加しました。マルコはその合宿のときの、二人部屋のパートナーでした。
最初に会った日に、マルコがイタリア人だとわかりましたから、「私が日本語を少し教えるから、イタリア語を少し教えてよ」と挨拶をしました。悪くないでしょう? ところがマルコは、「それはできない」と答えるのです。マルコはこう言いました。「僕はドイツの国境を越えたときから、ドイツ語しか話さないと決めたんだ。だからイタリア語は教えられない。」ちょっと嫌な感じがしないこともありません。
その4週間の合宿コースには、120人くらいの生徒がいました。一番多いのはイタリア人で、40人くらいいたと思います。イタリア人は陽気なので、毎日のように庭やキッチンでパーティーみたいな感じでした。しかしマルコはそういうのには参加しません。イタリア人ともドイツ語で話していたみたいです。ドイツ語講座の授業は午前中で終わるのですが、マルコは午後もずっと勉強していました。土日には、近所の山へ一人で登山に行っていました。土曜日の朝早く、大きなリュックを背負って出ていって、日曜日の夕方に帰ってくるような感じでした。
その合宿コースで二番目に多いのは日本人、30人くらいいたと思います。特に大学生、特に女の子が多数をしめていました。授業が始まって何日かたったころ、食堂でお昼ごはんを食べていたら、ドイツ語の先生がひとり近づいてきて私に「あなたは日本人かい?」と聞いてきました。私はその時点で少しドイツ語は話せたので、はいそうですよ、と答えました。するとその先生が、日本人の女子学生の多いクラスで教えているんだけど、すごく困っているんだ、と言うのです。何に困っているかというと、日本人がまったく声を出してくれないというのです。その先生は、日本語で、「恥ずかしくないよ」って励ますんだそうです。恥ずかしくないよ、という発音、ちゃんと通じているかなと聞かれて、ハイ通じると思いますが、日本人女子学生に声を出させるのは難しいと思いますよ、と私は答えました。
その日本人女子学生たちが本当に声を出すのが苦手なわけではなかったと思います。近所のカフェでは大きな声で日本語で話をしている日本人女子大生グループを見かけることはよくありました。もちろん日本の女子学生の全員がそんな感じだというわけではないでしょう。そもそも男子大学生はそういうコースに参加すること自体が少ない傾向がありますから、「男子大学生より女子大学生が、、」という話がしたいわけではありません。
さて、マルコの話に戻りましょう。イタリア人なのにドイツ語しか話してくれないマルコですが、合宿の最後の週になった頃に、「ねえ、ケンジは何日の飛行機で日本へ帰るの? もし余裕があるなら、ちょっとイタリアに来ないかい?」と言ってきました。ちょうど、私は語学合宿のあと、1週間くらいドイツを旅行してから帰るつもりでした。イタリアへ行く予定ではありませんでしたが、マルコと一緒にイタリアへ行くことにしました。
イタリアへは電車で向かいました。ドイツの国境から出てスイスに入ったら、冒頭に書いた誓いが解けたのでしょう、マルコは少しイタリア語を教えてくれました。マルコの家は、ミラノという有名な町のそばでした。結局、三日間くらいマルコにミラノの周辺を案内してもらいました。皆さんはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」という有名な絵を知っていると思います。この「最後の晩餐」は、ミラノの小さな教会の中にありますが、マルコと一緒に「最後の晩餐」を見たのは、とてもよい思い出になっています。
最初に会った時、マルコはドイツ語の初心者で、私の方が少しよく喋れていました。しかし4週間後、マルコはもっとも努力した学生として表彰され、その時点で私のドイツ語力を越えていました。その後しばらくして、私が自分の子どもも連れてドイツへ留学した時も、スイスで仕事をしていたマルコを訪問しました。そのあとも時々連絡を取り合っています。
今日の私の話は以上です。もしなにか興味をもった点があれば、担任の先生を通じて伝えてくれるか、時間を見つけて校長室まで話しに来てください。