東京学芸大学附属世田谷中学校 校長・前原健二の昼礼アーカイブ

 このページは校長として昼礼で生徒に話した内容を文章にしたものです。想定している読み手は、在校生及び保護者の皆さん、卒業生、教育実習で本校へ来る予定の大学生、そして本校への進学を考えている小学生と保護者の方々、です。学校の雰囲気の一端としてご笑覧ください。
 普段、原稿を用意して読み上げているわけではなく、ここに掲載した文章はあとから思い出し整序して採録したものです。そのため実際に話した内容とは大なり小なり違いがあります。また、すべての講話を採録しておらず、省いたものもあります。上の写真は卒業式のときのものです。いつもの昼礼もこのスタイルです、というと格式高くなりますが、もちろん普段はこのスタイルでははありません。
 文章の内容は附属世田谷中学校として、また東京学芸大学としての見解を示すものではなく、すべて校長・前原健二個人の見解に基づくものです。

前原健二:Mail: maeharaあっとu-gakugei.ac.jp

このページには2024年1月以降を載せています。2023年12月より前のアーカイブはこちらからご覧いただけます。

2025年3月10日 【生涯スポーツ】

先週は三送会から卒業式と密度の濃い時間が続きましたので、今日の私の話は軽めにしたいと思います。

少し前に、高校のときの同窓会がありました。そこで一人の同窓生から、趣味でマラソンを走っている、東京マラソンも走ったという話を聞きました。その子は(女性、もちろん今では皆立派なおじいさんおばあさんの年齢です)、私の記憶によれば、高校1年生の時点で「もう一生分の汗をかいてきた、高校では絶対汗をかきたくない」といったことを話していて、実際運動が好きなようには見えなかったような気がします。それがそれなりに年を経て、自分の好きで40キロのマラソンを走るというのでとても驚きました。

私はというと、フルマラソンを走ったことはありません。一番長く走ったのは20キロですが、それはタイムをとっていません。タイムをとって走って一番速かったときは40歳頃で、10キロのレースで52分くらいでした。さて質問です。計算が細かくならないように10キロ50分だとしましょう。1キロ走るのに何分かかっていますか?(追記:一番前にいる生徒さんを指差しで指名してしまいました。全校集会で指名されるのは予想外で焦りますよね。)1キロ5分ですね。では100メートルは? 5分は300秒だから、100メートル30秒ですね。これが速いのか遅いのかといえば、客観的には速いとは言えませんが、主観的には速い。今の私はもはやこのスピードで走ることはできません。

生涯スポーツという言葉があります。大人になって、趣味のようにずっと続けていかれるスポーツのことです。中学生の皆さんは、部活動などでひとつのスポーツに集中して取り組んでいる人もいれば、特にやっていないという人もいるでしょう。皆さんのお父さんお母さんはどうですか? 私は時々卓球をやるほかは自宅の近くでおじさんソフトボールのチームに入っていました(今はやめてしまいましたが)。スポーツは、やらなくてもよいのですが、なにか一つ生涯スポーツとしてやれるものがあると楽しいものです。

今日はスポーツの話をしました。

2025年2月17日 【ファーストペンギンとセカンドペンギン】

今日はペンギンの話をさせてください。といっても本当のペンギンの話ではなくて「ファーストペンギン」の話です。

ファーストペンギンという言葉は、企業の経営とかのビジネス方面、私も少し勉強している人材育成の話でよく使われます。ペンギンが魚などをつかまえるために海にどーんと飛び込むわけですが、そのときに海の中に待っているかもしれない危険をかえりみずに強い意志と勇気をもって最初に海に飛び込んでいくペンギンをファーストペンギンと呼ぶらしいのです。実際のペンギンは強い意志と勇気で飛び込むわけではなく、本能にしたがって飛び込むのでしょう。ビジネス方面でファーストペンギンという言葉を使うときは、まだ誰もやっていない新しい企画や商品を考えて、市場に挑戦していく人や会社のことを指して使います。

このファーストペンギンをファーストペンギンたらしめる構造的な条件は何だと思いますか? (追記:昼礼でもこの通りの表現で実際に最前列中央の生徒さんに聞いてみました。この問いは工夫の余地が大いにあったとあとから反省しました。)

ちょっと質問が悪いですね。ファーストペンギンがファーストペンギンとなることができる「構造的な条件」というのは、「セカンドペンギンがいること」です。つまり、自分のあとから二番目、三番目、その他たくさんがあとからついてきて、それによって初めてファーストペンギンになることができる。もし誰もついてこなかったら、どーんと飛び込んですぐにサメとかに食べられてしまったら、そのペンギンは「愚かなペンギン」と言われることでしょう。比喩として使う場合には、新しい企画や商品をつくってどーんと売り出しても、全然注目されずに終わってしまって誰も似たような企画や商品を作ろうとしなければ、要するにその挑戦は失敗だったということになります。

ファーストペンギンに必要なのは自分の行動に対する強い信念でしょう。まだ誰もやったことのないことに挑戦するには勇気が必要です。これに対してセカンドペンギンに必要なのは、落ち着いて考える判断力のようなものでしょう。誰かが飛び込んだからといって、何も考えないで自分も飛び込むのはあまりよい判断とは言えません。ファーストペンギンとセカンドペンギンには違うちからが必要だということです。

教室の授業の中で、部活の活動の中で、皆さんがファーストペンギンやセカンドペンギンになることはとても多いのではないでしょうか。「これどう思うかな?」と問われて自分の考えを言うときがファーストペンギンですね。それを聞いて自分も賛成ですと発言すればセカンドペンギン。いや全然違う考え方がありますと言うときは、またファーストペンギンでしょう。ファーストペンギンには何と言っても自分の信念と強い意志がありますから、発言に迷うことはない。ファーストペンギンはとても大切です。セカンドペンギンの方は、自分がそれまで考えもしなかったような提案を聞いて、すぐに飛び込むか飛び込まないか、自分で判断して決めなければなりません。普段の生活の中ではこのセカンドペンギン的な立場を与えられることの方が多いように思われます。これもこれでとても大切です。さきほど言った通り、ファーストペンギンがファーストペンギンになれるかどうかは、セカンドペンギンたちが決めるのです。

信念と強い意志を持った人の話や行動に触れたとき、今日の話を少し思い出してみてください。

2025年2月10日 【When I'm 64 64歳になったら】

今日は最初に曲をひとつ聞いてください。(追記:ビートルズの "When I'm 64" を1コーラスだけ流しました。)

ビートルズという有名なグループの "When I'm 64."「僕が64歳になったら」というもうかなり古い曲ですね。詞の中身は、僕が64歳になって髪の毛が薄くなってもバレンタインや誕生日にはカードを送ってくれるかい?ワインをプレゼントしてくれるかい?という感じで、10代後半か20歳くらいの男の子が女の子に向かって話しているというものです。有名な曲だったので、私は皆さんと同じくらいの中学生の頃には、英語の中身がわかっていたかどうかは覚えていないのですが、この曲は知っていました。

なぜその曲を昼礼でかけるのか? 勘のよい皆さんはもう気づいたかもしれません。今日、2月10日は私の誕生日です。ただし64回目ではなくて63回目、つまり63歳になりました。(追記:拍手あり。それを求めていたわけではありませんが、嬉しいものです。)今、この年齢になって思うのですが、この曲を知った頃には自分が60代になってどうなっているか、などということはまるで考えませんでした。でも今、この年齢から逆に振り返ると、全部細かく覚えているわけではありませんが、自分が50歳の頃、40歳の頃、30歳、20歳の頃、その中にあったいくつかの人生の転機みたいなものをはっきり思い描くことができます。ビートルズの歌は素晴らしいのでそれはそれでよい。しかし現実の人生では、20歳の時点で60歳の目標を具体的に立てることは難しい。ゴールからスタートを見ればしっかり見通すことができるけれど、スタートからゴールを見通すことはできません。スタートから見ればあまりにも多くの分かれ道があります。ゴールから見れば、自分の選んだ道ははっきりわかるけれど、選ばなかった方の道は、通っていないわけですから、わかりません。スタートから見た場合の見通しの悪さは、言い方を変えれば無限の可能性です。今中学生の皆さんには無限の可能性があります。

1月からの昼礼講話はずっと同じ話をしてきました。今日の話も同じです。つまりこの1年間の目標をしっかり持ってほしい。そうこうしているうちに、すでに2025年は1割が終わってしまいました。あと9割しかありません。50年後を想像してこうなっていたい、と目標を立てることは難しいから、3月までの2ヶ月、夏までの半年、今年の終わりまで、中学校を卒業するまでなど、ある程度見通すことのできる範囲での自分の目標を、まだ何もないという人は是非、もう一度考えてみてください。

63歳の私は、「64歳になったら」あれをしよう、これもしたい、とかなり具体的に考えることができます。でも今日とりあえず考えるのは、家に帰ったときに私の誕生日を祝ってワインが1本買ってあるといいなということです。(追記:ここは笑いは起きませんでした。)

2025年1月27日 【内向きを見直す】

こんにちは。先週に続いての昼礼ということなので、先週の話の続きのような話をします。 先週何を話したかというと、日本の若者は悲観的で、内向きな人が多いらしいという話です。いくつかのデータに即して話したので、それはその通りなんですが、あとから少し考えました。

皆さん、ガラケーって知っていますか? スマートフォンの前の携帯電話のことだというのは知っているとして、「ガラ」って何でしょう? 大学生でもこれを「ガラクタ」の「ガラ」だと思っている人もいますが、そうではなくて「ガラパゴス」のガラですね。で、なんでガラパゴスなのかというと、ガラパゴス諸島ですね。知っているよという人もいるでしょう。ダーウィンの進化論と関係のある、独自の進化をとげた生物が多いという場所ですね。そこからとって、この日本列島で独自の進化を遂げているもののことをガラパゴスなんとか、と言いますね。工業製品の例でよく使うようですが、先週たまたま読んでいた本の中に「ガラ仏(ぶつ)」の話が出てきました。ガラパゴス仏教のことで、日本の仏教はもともとのインドや中国のものとまったく違う独自の進化を遂げた仏教だという話でした。

このガラパゴスなんとかというのは、たいていは悪い意味で使います。世界の流れから取り残されているという意味です。でもここでちょっと考えてみました。いま海外からたくさんの旅行者が日本に来ていますが、その人達が楽しみにしているのは日本独自のものでしょう。日本独自に発達をとげたものがあった方が魅力的で、日本の文化が日本独自の進化をしていなかったら、あまり魅力的ではないでしょう。

こう考えてみると、なんでもかんでも外向きに開かれた方がいいとも言えないような気がしてきます。内向きが好きで、外へ出ていきたがらないことはそれ自体では悪いことでもないように思われてきます。前回の私の話では若い人が内向きなのはよくない、みんなもっと外を見よう、と強調したように思うのですが、ちょっと訂正した方がいいかもしれません。内向き外向きということではなく、どっち向きでもよいから自分で動くという意味で積極性が大事だと言った方がよいと、今は思います。

(追記:という話をしたくて準備もして話したつもりでしたが、思い返すとちょっと話が行ったり来たりで実際の昼礼では上記のようには話せてなかったかもしれません。)

2025年1月20日 【日本の若者】

こんにちは。今年になって、始業式では一度お話をしましたが、昼礼は最初ですね。始業式のときに、冬休みには旧年を振り返り新年の目標を考えたりしたと思いますと話しましたが、どうですか? 皆さん、今年は自分にとって去年よりもいい年になると思う人、手をあげてみてください〔追記:実際には半分くらい、手があがった感じでした〕。

この質問は、国際的な調査会社が世界の33カ国で実際に調べたものです。グラフを見てください。一番高いのはインドネシアで90%、世界平均では71%の人が、今年の方がいい年になると回答しています。日本はどうかというと、38%で最下位です。ひとつ上のフランスが50%ですから、そこから12%の差があって、まあぶっちぎりの最下位と言ってよいでしょう。つまり今年が自分にとって去年よりいい年になると楽観している人の比率がとても少ないのです。


(イプソス社のニュースリリース、「2025年の見通し、日本人は世界で最も悲観的」から。https://www.ipsos.com/ja-jp/ipsos-predictions-2025-ja)

この結果には少し疑問もあるかもしれません。調査の対象が16歳から74歳ということですから、もしかすると高齢の人が多く答えた結果、日本は楽観的な人が少なかったのかもしれません。このデータの詳細はわからなかったので、この点はこれ以上なんとも言えません。

別の調査を見てみます。日本財団というところが世界の6カ国の18歳前後の若者を対象に行なった調査です。つまり若者の意見ですね。これを見ると、「自国が良くなる」と思っている人の比率は中国85%、インド78%に対して日本はわずか15%。最少です。「留学したり他国で働いてみたい」も最少、「自分の行動で国や社会を変えられる」も最少です。他にも質問項目がありましたが、全体として日本の18歳は他の5カ国と違う回答傾向を持っています。

   
(日本財団、18歳意識調査「第62回 –国や社会に対する意識(6カ国調査)–」2024年3月から作成、項目の記述は簡略化しています。)

まとめて言えば、日本の若者は将来を楽観できず、世の中との関わりに消極的で、内向きな思考を持ちがちなようです。なぜこうなのでしょう?

こういう問いを考えるときには、「実際にそうだ」ということと、「実際にそうかどうかはわからないが、そう思い込んでいる」ということを区別することができます。本当に日本社会がよくならないだろうという現実があるのか、それとも実際はそうでもないけれどそう思い込んでいる、思い込まされているのか、ということですね。また、よくなるかどうかというのは自然現象のような話とは違います。今年が良い年になるかどうかは、自分が良い年にするかどうかという問題だとも言えます。今年を去年よりも良くするために、日本社会を良くするために、みなさん自身がこの1年どんな目標をもって過ごすのか。改めて考えてみてはどうでしょうか。

今日は少し長くなりました。

2024年12月9日 【蕎麦屋では蕎麦を食え】

こんにちは。今日は私の好きな話、大学生に機会があるごとに話している話をさせてください。

皆さん、「蕎麦屋では蕎麦を食え」という格言を知っていますか? たぶん知らないと思います。私が考えた格言だからですね。どんな意味かというと、「お蕎麦屋さんにいったら、蕎麦を食え」という意味、まあそのままです。でももう少しいえば、「これを売りにしている」というお蕎麦屋さんがあるとして、そこへ初めて行ったときには、あれこれ考えずにそのお蕎麦屋さんが売りにしているものを注文しようよ、ということです。

大学生たちは、あまりこの話をわかってくれません。蕎麦屋に行っても蕎麦の気分じゃないときもあるとか、自分はやっぱりカツ丼が食べたいとか、そもそも蕎麦は好きじゃないとか言います。もちろん、いつもいつも同じものを食べたらいいと言いたいわけではありません。何回も来ているお蕎麦屋さんなら、好きなものを頼めばいいでしょう。しかし、二度とこないかもしれない、きのこ蕎麦が名物だというお蕎麦屋さんに入ったら、あれこれ考えずにきのこ蕎麦を頼む。私ならそうしますが、皆さんはどうですか? やっぱりその時の自分の気分で選びたいでしょうか?

ここで私の話が終われば、よくわからないけれど校長が蕎麦屋の話をしたということになりますが、もちろん蕎麦屋の話がしたいわけではありません。別に蕎麦屋でなくても、うどん屋でもカレー屋でもパンケーキ屋さん(行ったことありませんが)でも同じです。何が言いたいのかというと、今自分のいる場所に、自分は何のためにいるのかをしっかり考えて行動したいということです。話を大学生に戻せば、私は大学生に向かって「大学には大学が一番売りにしているものがある、それを味わうことが大事だ」と言いたいのです。大学が売りにしているのは専門的な学術研究です。だけど、とても多くの大学生が大学生になって一番やりたいことはアルバイト、サークル、とにかく遊びたいというのです。それは絶品の天ぷらそばを出す蕎麦屋でフルーツパフェを注文するようなものだと思うのです。(実際問題としては、うまいフルーツパフェを出すと評判の蕎麦屋さんはあるでしょう。ここでのポイントはそこにはありません。)

皆さんは今中学生で、この附属世田谷中学校で学んでいます。今の話を置き直せば、附属世田谷中学校が一番売りにしているものがあれば、それをしっかり全力で味わってほしいということです。それはいったい何だと思いますか?

今日は「蕎麦屋では蕎麦を食え」という話をしました。

*誤解がありうるかと思って追記。せっかく附属世田谷中で学んでいるんだからとにかく勉強に集中せよ、と言いたいわけではありません。もし野球が好きで世中で野球部に入ったなら、野球部としての活動時間は全力で野球に集中する。それが「蕎麦屋で蕎麦を食う」ということです。私がもったいないなと思うのは、授業中に野球のことを考えて部活中にはテストのことを気にして、しっかり寝るべき時間にずっとスマホをいじるような時間の使い方です。自戒も込めて。

2024年12月2日 【4歳児の空ごと】

皆さん、こんにちは。今日は、前にも話したことのある私の孫娘の話をさせてください。

私の孫娘は4歳になりました。この孫娘が、最近「嘘」をつくようになりました(追記:当日、ここで生徒たちは爆笑していました)。「嘘」という言葉はいかにも語感が悪いので、このあと「空ごと」と呼ぶことにしましょう。

私は孫娘と一緒に住んでいないのですが、私がおじいちゃんであるということは認知されています。孫娘の母親つまり私の娘から連絡があって、ちょっと仕事の都合で夕飯の時間にかかってしまう、その間孫娘と一緒にファミレスで夕飯を食べていてくれないか、というのです。喜んで引き受けました。

間が持たないと困るので絵本を持っていって読んだり絵を書いたりしながら過ごしてそろそろ母親が来るかなという時間になって、孫娘が「あ、ママが来た!」とファミレスの入口の方を見て言うのです。私がそっちを見ると、来ていない。そこへ「来てないよー」とか言うのです。空ごとです。そんなふうに空ごとを言うのを初めて認識しました。以前から、ぬいぐるみを並べて一人何役もやって一人遊びをしていたので空ごとを言う能力が全然なかったわけではないと思います。でも人間相手に空ごとを言うのは大変です。相手の反応を予想した上で、あえて事実とは違うことを事実のように言うというのは大変な能力です。でも、「来てないよー」と言われたすぐ後に私が「あ、ママ来たよ!」というと本当だと思って振り向くのが可愛いところです。

さて、4歳児の空ごとを、大人はどう受け止めるべきでしょうか? ウソをつくのはよくない、と叱るべきでしょうか? 私はそうは思いません。空ごとが言えるようになるというのはとても大事なことだと思うからです。目の前にある事実そのものとは違うことを言えなかったら、仮説を立てたり、自分と違う考えを理解したり、話し合ったりすることができません。物語を読んだり映画を見たりすることもできません。空ごとを言い、理解する能力はとても大切です。

でも注意してください。嘘をつくのは人間の本能の一部だとか、自分に利益があれば嘘をついても構わないとか、そういうことが言いたいのではありません。たとえばニュースの映像をみたり記事を読んだりするときに、それは本当の事実であるかもしれないし、空ごとであるかもしれませんね。私たちはそれを自分で見分けなくてはなりません。どうすれば、そのちからが身につくのだろう? それが幼い頃の空ごとを言う能力の延長上にあることは間違いないだろうと思います。皆さんは、今の話を聞いてどう思いますか?

今日の私の話は以上です。

2024年11月11日 【匂いの代金を音で払う】

今日は落語の話から、といっても今私が落語をやるわけではありません。最近の中学生がどのくらい落語を知っているか全くわからないのですが、今からする話を知っている人もいると思います。そういう人も、しばしお付き合いください。

昔、ウナギを焼いて売っている鰻屋の隣にとてもケチな男が住んでいて、自分では一度もウナギを買わずにウナギを焼いている匂いをかいでご飯を食べていた。年末になって、鰻屋がその男のところにきて、おい、いつもうちがウナギを焼いている匂いをかいで飯を食っているそうだな、その匂いの代金を払ってもらおうじゃないか、と。そのケチな男は、ああ、払ってやろうと言って財布からお金を出した。何枚かのお金を手の中でふってチャリンチャリンと音をさせて、匂いの代金だから音で十分だろう、と。

天才的ですね! なかなかそんな支払い方、思いつきません。

いつもながらにここで昼礼の話を終えるわけにはいきません。この話を皆さんに考えてもらう材料として引き取りたいと思います。でも、ちょっと無理のあるつなぎ方になるかもしれません。

ウナギを焼いている匂いの代金をお金の音で支払うというアイディアは、世の中にお金を払って買うことのできるものとできないものがあることを教えてくれます。たとえばいつもクラスの空気を明るくしてくれる人、部活動のムードを盛り上げてくれる人というのがいることでしょう。そういう人たちは、学期末に他の生徒に代金を請求したりすることはありません。交差点で横断歩道の見守りをしてくれている人、校門でおはようと声をかけてくれる人がいます。誰も代金を求めないし、お金を渡したって受け取ってもらえないでしょう。つまりお金を払うことができないものというのが、世の中にはあります。

確かに何かを受け取っているけれど代金を支払うことはできず、チャリンチャリンとお金の音を聞いてもらうというわけにもいかないとき、私たちはどうやって「支払い」をしたらよいのか。そんな支払いは必要ないという人もいるかもしれませんが、そんなこと言わないでちょっと皆さんも考えてみてください。

2024年10月19日 【芸術発表会パンフレット ご挨拶】

「一度に道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?」by 道路掃除夫ベッポ

いまこれを書いているのは9月上旬、芸術発表会の準備はまだ始まったばかりで芸発まではだいぶ時間があります。もちろんこれをいま読んでいる皆さんはすっかり準備を終えて発表会の当日を迎えているところでしょう。

表題にあげた引用はミヒャエル・エンデの『モモ』から(岩波書店、大島かおり訳、引用は一部表記を変えています)。モモという女の子が「時間泥棒」から私たちの「時間」を取り戻すファンタジー、読んだことのある人も多いでしょう。ベッポはモモの友達で、道路掃除の仕事をしています。ずっとこの仕事をしてきたので道路掃除夫(シュトラーセンケーラー)が名字のようになっています(この種の名字は実際によくあります。シューマッハーは靴職人、ミューラーは製粉屋です)。長い道路を掃除するやり方について、表題の引用に続けてベッポはこう言います。

「次の一歩のことだけ、次のひと呼吸のことだけ、次のひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただ次のことだけをな。」

「すると楽しくなってくる。これが大事なんだな。楽しければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

「ひょっと気がついたときには、一歩一歩進んできた道路が全部終わっとる。どうやってやりとげたかは、自分でもわからん。」

「これが大事なんだな。」

クラスの全員で一枚の絵、窓のステンドをつくり、合唱曲に取り組む時、はじめは見通しが立たなくて不安な気持ちになることもあったと思います。しかしひょっと気がつくと、すべてのクラスが自分たちの仕事を仕上げて今日を迎えている。その道のりは、必ずしも平坦なものではなかったかもしれません。それでも一歩一歩仕事を進めていくと、だんだん楽しくなってくる。そんな心持ちが皆さんの中にもあるのではないかと想像しています。そしてそれは、皆さんの附属世田谷中学校で過ごす時間のすべてに当てはまるものかもしれません。

他の学年、クラスの作品や合唱、有志の生徒たちの発表に触れるとき、大切なのは比較することではなく楽しむことです。今日までのそれぞれの道のりにも思いを馳せながら、芸術発表会の二日間を楽しみたいと思います。



*3年生の窓のステンドアートを外から撮影。

2024年10月7日 【国際教師デイによせて】

一昨日、10月5日が何の日か、知っていますか? おそらくまったく有名ではないと思いますが、「世界教師デイ」という日で、世界中で、先生として働いている人々に感謝しようという日です。先生に日頃の感謝のメッセージカードを渡したり、花束を贈ったりする国もあるようです。なぜそういう日があるのかというと、国連の機関であるILO(国際労働機関)とユネスコが「教師の地位に関する勧告」という国際条約のようなものを作り、採択したのが1966年の10月5日で、その後1994年から記念日にしたようです。

私は、今年は特に念入りに、この国際教師デイについての企画やニュースが目につかないか気にしていたのですが、文部科学省は特に何もしなかったようです。いくつかの民間の団体が関連した企画を行っていたようでした。学校の中で直接先生に感謝を表現するかどうかはともかくとして、日本社会全体としてはもう少し教師を大切にする機運をつくってもよいのではないかな、と考えながら、振り返って子どもたちのことを考えてみました。

いま、少子高齢社会とよく言われます。聞いたことがあるでしょう。しかし、高齢社会つまり高齢で長生きする人が増えているという話に比べて、少子社会の方はあまりその実質を耳にしないのではないでしょうか。私は1962年の生まれですが、この年日本では約161万人が生まれました。今中学2年生あたりの人は2010年生まれ。この年は約107万人です。つまり生まれる子どもの数は3分の2になったということです。去年、2023年に生まれた子どもは約73万人です。つまり2010年からみて更に3分の2になったということです。おそらく今年は70万人を割り込むだろうと予測されています。

1年間に70万人という数が何を意味しているか、イメージしにくいかもしれません。こんな風に考えてみてください。生まれた70万人の全員が100歳まで生きるとして、その時点で日本の人口は70万×100=7千万人。実際は全員が100歳までは生きないでしょうから、確実に7千万を割り込みます。今の日本の総人口は1億2千万を超えていますが、それが確実に7千万以下まで減る、1年間に70万を割り込めばもっともっと減る、そういうイメージです。

教師という仕事を社会全体で盛り上げることは大切だと思いますが、それ以上に大切なのは子どもたちを大切にして、子どもたちを盛り上げることでしょう。子どもたちの世代から見れば前の世代以上に強くはばたくことが求められると言ってよいでしょう。皆さんはその準備ができていますか? こう言うと、前の世代よりも重たい荷物を背負うことを求められているようで気が重くなるかもしれません。総人口が大きく減っていく社会というものを、私たちは経験したことがないんですね。つまり、何がどうなっていくのか、まったくわからないのです。世界教師デイの話をしようと思って準備したのですが、途中で話したい内容が変わってしまいました。

今日の私の話は以上です。

2024年9月23日 【番外 小さな喜び】

これはいつもの昼礼の話の採録ではありませんが、番外としてご笑覧いただければ嬉しく思います。

詳細は省略、過日、学校行事の際、ひとりのお父様から声をかけられました。この昼礼ブログをいつも読んでいただいているとのこと、ありがたいことです。そのお父さまが、「校長先生はフリーレンを知っているんですか? それは生徒から聞いて? それともご自身で?」と聞くのです。そこからこの昼礼ブログについていろいろお話させていただいて、とても嬉しく有り難く思いました。

でも、お話しながらちょっと不思議な感じがしていました。 昼礼ブログに「フリーレン」(もちろん「葬送のフリーレン」のことです)って、書いたかな? あとで見てみました。「フリーレン」とは書いていない。ただ「イメージできないものは実現できない」と書いています。もちろんこれは「葬送のフリーレン」からの引用で、話の文脈もそれを意識しています。しかしそのお父様、どうしてこれがフリーレンからだと「わかった」のだろう? はっきり書いてなくても、それを読んだときに自ずと「はっきりわかった」のです。

これを小さな邂逅と呼んでも、あまり異論は出ないでしょう。私は自分が完成された教養人だとは全く思いませんが、そういうものに近づきたいという念願は常にあって、本校の生徒たちにも(東京学芸大学の学生にももちろんのこと)そうあってほしいと願っています。「教養」は人生で「役に立つ」わけではないかもしれないけれど、人生を「楽しく、豊かにする」と信じるからです。

「教養」は、とても曖昧に響きます。まあ何でもいいんですが、いつかどこかで誰かとつながることのできる話題のようなものでしょうか。それは「人生の役に立たない」かもしれないけれど「人生を楽しく、豊かにする」。今回、改めてフリーレンはそう教えてくれました。

上述のお父様は、校長の職にある私がフリーレンを知っていること、それを昼礼講話に(こっそり)取り入れていることに興味をお持ちのようでした。私は子どもの頃から少年漫画も少女漫画もたくさん読み、日本文学も翻訳小説もたくさん読んで来ました。一番好きな古典は『伊勢物語』、SFなら『夏への扉』、SFではない翻訳小説はジョン・グリシャム。夏に読んで面白かったのは言うまでもなく(!)『三体』。漫画もたくさん読みました。一番好きな野球漫画は『キャプテン』、一番好きな少年漫画は『北斗の拳』、一番好きな少女漫画家は萩尾望都。ほぼ通じないでしょう。いずれも今日という日のために読んできたわけではありません。若い頃は映画はあまり観ていませんでしたが、その後映画も好きになり(映画って、テレビよりはるかに難しい)、今のところライフタイムベストは『ユー・ガット・メール』。音楽は、昭和歌謡とフォークならたくさん語れるのですが最近の曲はさっぱり。クラシック方面は決定的に弱い。この世からいなくなるまでにたくさん聞きたいと思っているのはバッハ。美術方面はもっと根源的に不案内で、これからたくさん見たいとも言いにくい。理数系は弱いのですが、授業を見ては本校の先生に「これって、こうなの?」と質問したりしています(先生方に聞くのは理数だけでなく、国語も体育も家庭科も、どんどん先生方に聞いてしまいます。楽しいことです)。

この昼礼ブログ、「読んでいます」と直接お声掛けいただくのは今年度にはいってから3回ほど。有り難いことです。昼礼講話もこの昼礼ブログも、なにかに直接役立つということはないかもしれません。しかし、直接役に立たないとしても意味のあることというものはある。そう思います。お声掛けいただくたびに勇気百倍、つまり今年だけで100の3乗=勇気100万倍です。

お読みいただきありがとうございました。(一度アップして少し直しました。)

2024年9月9日 【同調圧力】

皆さんこんにちは。先週から教育実習生がたくさん来ていますね。今日の私の話は実習生の皆さんに話したこととだいたい同じ話です。

皆さんも「同調圧力」という言葉を聞いたことがあると思います。いまの日本では、良い意味で使われることはあまりないかなと思います。同調圧力というと、クラスの中で誰かがいじめられている、仲間外れにされている、「みんな」がそうしているから自分もそれに同調してしまっている、結果的にクラス全体で同調してひどい状況を生み出している、というような使い方が多いからです。

しかし、同調圧力という現象は、本来は中立的なものです。たとえばこんなことがあります。まだそれほどバイオリンがうまくない人が自分の力よりもうまいオーケストラの練習にまぜてもらう時、バスケットボールで頑張っている中学生が高校の練習に参加した時、そこそこのタイムの陸上選手が速い人達と一緒に走っている時、普段の自分よりずっと「うまく」やれることがある。実力が向上したのかなと思って普段の環境に戻ると、昨日の絶好調はどこへやら、自分がどうやってあんな風にできていたのかもわからなくなって、普段の自分の実力に戻ってしまう。自分だけの思い込み、錯覚だったということもあるかもしれませんが、客観的に測定できるデータでみても確かにそういうことはあるようです。つまり一緒にその場にいる人達に知らない間に引っ張られて力が向上するという現象はあるようで、これもまた同調圧力の結果ということができます。

どうしてそんなことが起きるのか。よい方向の同調であれ、逆方向であれ、それは「人間が社会的な生き物だから」と説明できます。私たちは集団の中で周りの人の影響を受け、それは無意識のうちに行動のパフォーマンスにも影響を与えるほどに強いことがあるということでしょう。

良い方向の、集団のみんなで高めあっていくような同調圧力と、逆の方向の同調圧力があるとして、良い方向の同調圧力が働く方がよいことは明らかでしょう。しかし、そこが難しい。どうやったら上向きの同調圧力が働いて、どうなると下向きの同調圧力になってしまうのか、そこを明確にコントロールできたら、ある意味、話は簡単です。なかなかそう簡単にコントロールできず、みんなでダラダラと演奏して普段よりずっと下手な状態から抜け出せなくなったり、いつもなら入るはずのシュートが入らない、走っている全員がいつもどおりのタイムも出せないということがあって、どうやったら上向きに反転させられるかがわからないということがあり得ます。そういう時、ついつい気合いを入れてなんとかしたくなりますが、誰かが気合いを入れたらなんとかなるというものでもなさそうです。やはり一人ひとりのちょっとした気持ちの持ち方が大切になるのではないかと私は考えています。

すでにそれぞれのクラスでは、10月の芸術発表会の準備が始まっていますね。クラスという集団で少しでも良いものを作ってくときに、大事なのは上向きの方向、つまりみんなで良い方向に変わっていく流れを作っていくことでしょう。附属世田谷中学校のクラスはすべてそんな集団であってほしいし、実習生の皆さんもそんな風に授業を作ってほしい。そんなことを考えました。

2024年7月19日 【1学期終業式】

この1学期はカレンダーの都合で昼礼があまりありませんでした。そこで今日、この時間を使って少しだけお話させてください。「イメージできないものは実現できない」という話をしますが、魔法使いの話ではありません。

皆さん、夏休みにはすでにいろいろな予定が入っていると思います。その予定の中に学校の課題以外で「本を読む」を入れている人は、あまり多くないかもしれません。私は、この夏休みには、もちろん休みの間だけでなくいつでもそう思うのですが、本を読む時間をとってほしいと思っています。

なぜ本を読むことをそれほど勧めるのか。そこで出てくるのが「イメージできないものは実現できない」という冒頭の話です。

よく言われるように、ミツバチは綺麗な蜂の巣を作りますが、それはこういう蜂の巣を作ろうとイメージした結果として作っているわけではなく、本能にあらかじめ刷り込まれた通りに作っているだけでしょう。ミツバチに他の形の巣を作らせることは、できそうもありません。

それに対して、私たちは、本能の通りに何かを作るということはありません。たいていの場合、具体的なイメージを描いた上で計画したり、話したり、行動したりするでしょう。このとき、心の中の蓄積が多ければ多いほど、幅広く豊かなイメージを描くことができるでしょう。

本を読むことは、物語でも、科学や歴史や政治・経済に関する読み物でも、私たちが普段の生活の中では触れることのない、多くのイメージを伝えてくれます。もちろん、テレビやインターネットや漫画からもいろいろな新しい知識を得ることができますが、そういうメディアと比べると、本を読むことには大きなメリットがあります。それは、本を読むときに、私たちは自分で自分の頭と心の中にイメージを刻み込みながら読むようにできているということです。これはとても大切な点で、これこそが本を読むことの最大のメリットです。

物語を読めば、世の中にはいろいろな人間がいるということを知ることができます。そこには素敵な人もいれば、嫌な人もいるでしょう。本を読むことを通して、私たちは普段知り合うことのできる人よりも多くの人と、深く知り合うことができます。科学や歴史の本を読めば、私たちは社会の複雑さや未来の可能性について多くのイメージを得ることができます。たとえばハリー・ポッターを読めば、ハリーという人についてとてもたくさんのことを知ることができます。それはしばしば、いつも自分の近くにいる友達について知っていることよりも深くて広いかもしれません。友達の心の中は友達が話してくれなければわかりませんが、物語には心の中のあれこれもたくさん書き込まれていて、それによって私達はその登場人物のことをよく知ることができます。

私は、皆さん一人一人に文字通り無限の可能性があると思っています。しかしその可能性を活かして、たくさんの人たちと知り合ったり、社会の様々な場所で活躍するためには、たくさんのイメージを持つことが必要です。とはいえ、今話したことは、自分の将来にとって直接役に立つ本を読みましょうということではありません。興味の持てそうな、好きな本を手当たり次第によむ方が、イメージのプールを広げるためには望ましいと思います。

「イメージできないものは実現できない」としたら、私たちは本を読むことで心の中のイメージを豊かにする必要がある、という話をしました。実り多い夏休みを過ごしてください。

2024年5月27日 【誤差の範囲】

運動会が近づいてきました。2年生3年生には前にお話したことがありますが、日本の学校の運動会という行事は世界的に見るととても珍しいものです。外国の教育関係の人に、いくら説明しても理解されないくらいに珍しい企画と言ってよいような感じです。スポーツフェスティバルのような、その日陸上競技場や体育館のようなところでいろいろなスポーツに触れるような企画はありますが、それは日本の運動会とは全く違います。

日本の運動会の特徴のひとつに、「組」をつくって勝敗を競うという点があります。附属世田谷中でも赤青黄緑の4つにわけて得点を競い、優勝を決めていますね。勝敗が必要なのか、私個人としては迷いがないわけではありません。そのため、去年も一昨年も、終わりの校長講評というところでは、「優勝は決まったけれど、得点は誤差の範囲」という話をしました。わかったようなわからないような感じかなと思います。

そこで今日は、私がどういう意味で「誤差の範囲」という言葉を使っているか、簡単に話しておきたいと思います。実は「誤差の範囲」という言葉はいくつかの意味で使われます。日常的によく見られるのは「差が小さい」「ほとんど差がない」という意味での使い方ですが、私の場合はこれではありません。得点にははっきり差があるのです。それでも「誤差の範囲」と考えるとはどういうことか。それは、「今回の測定ではこういう数値が得られたが、もう一回測定すれば違う数値が出るだろう」という意味です。運動会の得点種目の一つひとつはいろいろな要因で勝ち負けが決まるでしょう。グラウンドの状態が影響したかもしれないし、リレーだったら、バトンを落としたり転んだりすれば結果は変わるだろうということです。

実は、社会の中のいろいろな事柄にもそういうことがあります。入学試験などは特にそうです。もう一回やれば全然違う結果が出るかもしれないけれど、今日出たこの結果で物事が進む、というようなことです。それはおかしい、本当の結果が出るまでやるべきだと考えますか? それは正しいのかもしれませんが、世の中はそういうふうにはできていません。

話を運動会に戻しましょう。運動会本番で不本意な結果が出たからといって、もう一回運動会をやるわけにはいきません。結果は結果です。得点によって優勝が決まるという仕組みでやる以上は、全力で結果を求めてもらいたい。しかし同時に、どんな結果が出てもそれはやっぱり「誤差の範囲」の差であるかもしれないということも忘れないでほしいと思います。週末の運動会、全力で頑張りましょう!

2024年5月13日 【ジェンダーギャップについて】

今年はカレンダーの都合で4月には昼礼がありませんでした。したがいまして、1年生にとっては今日が初めての昼礼ということになりますね。昼礼では今やっているように校長の話というのがありますが、世の中では「校長の話」というのは長くてつまらないもののたとえに使われることもあるようです。たまたま先日、家で見たドラマの中でもそんなセリフがありました。そんな世間の印象に負けないように、本校の昼礼では短くて興味を持って聞いてもらえる話をしようと思っていつも準備をしています。

さて今日は、先日行われた本校の生徒会、緑友会の総会の討論を聞きながら考えたことを話したいと思います。まず、総会の討論の中でとてもたくさんの発言があり、そのひとつひとつがしっかりした自分の意見だったことにとても感銘を受けました。大勢の前で、堂々と自分の意見を述べることができるのは素晴らしいことだと思います。総会での議論は今後も継続されるようですから、これからの討論も楽しみです。

総会で話題になった「委員会の男女枠」に関連してもうひとつ話したいことがあります。「ジェンダーギャップ指数」についてです。知っている人も多いと思いますが、これは国際的な機関が毎年発表しているもので、最近のデータでは日本は調査の対象となった146ヵ国中の125位、いわゆる先進諸国では飛び抜けて低い位置にあります。つまり日本は男女平等の度合いがとても低い方の国だということです。これは、日本社会で暮らして学校に通っている皆さんの実感には合わないかもしれません。

ジェンダーギャップ指数は多くの指標を組み合わせて算定されていますが、大きなまとまりは「健康・医療」「教育」「政治」「経済」の4つです。このうち「健康・医療」と「教育」の二分野においては、日本も男女のギャップはありません。しかし政治と経済の面の男女のギャップがきわめて大きい。そのため、トータルで見ると125位となってしまいます。ジェンダーギャップは小さい方がよい、つまり社会の中での扱われ方に男女で違いがない方がよいということは、皆さんも賛成だろうと思います。では、それはなぜでしょうか。私が思うに、男女の平等が望ましい理由は大きく言って2つあります。一つは、男性と女性が等しい扱いを受けるのは「当たり前」だからです。こういうのを「規範的」な理由付けと言います。ちょっと哲学的な理由と言ってもよいかもしれません。もう一つは、「性別に関わりなく全員にその能力を発揮して社会に貢献してもらう必要がある」からです。経済的な理由と言ってもよいかもしれません。日本のように少子高齢化が進むと、とにかく若い世代は全員がしっかり頑張らないといけない、といった感じです。これらの哲学と経済学の組み合わせでいろいろな主張が生まれます。

ジェンダーギャップは、これからの日本で引き続き大きな課題です。緑友会の議題とも関連させて、是非一人ひとり、考えてみてください。

2024年3月19日 【改めて「なぜ学校に行くのか」を考える】 *本校新聞委員会発行『緑友』第75号寄稿原稿】

昨年、日本で二人目のノーベル文学賞受賞者の大江健三郎さんが逝去されました。私は高校生の頃からたまに大江さんの小説を読んできました。内容は常に難しく(というよりむしろ小難しくて)、「分かった」とか「面白かった」とか思ったことはあまりありません。そんなものをどうして読むのかというと、苦しいことは分かっているのに時々山に登りたくなる人のようなものでしょうか。

そんな大江さんですが、エッセイは少しわかりやすいと思います。なかでも割と知られているのが「なぜ子供は学校に行かなければならないのか」(『「自分の木」の下で』朝日文庫、所収)。このエッセイは、もともとはドイツの出版社の「ノーベル賞受賞者が、子どもの疑問に答える」という企画の一部で、私が最初に読んだのはドイツ語の教材としてでした。きっとドイツにも学校に行く意味がわからないと感じている子どもはたくさんいるのでしょう。

大江さんの答えは、今まで受け継がれてきた言葉や出来事やすべての経験を受け継いでいくため、またすべての科目を通じて自分を発見し社会とのつながりを確かなものにするため、です。実際はもっと複雑で文学的に書かれていますが、それを差し引いてもあまり説得された気がしません。これは学校に行くことに意味や喜びを見出して学校に通った経験を持つ人が、その意味や喜びを説明した答え方のように思われるからです。

私ならどう答えるだろう? 学校に行かなければならないわけじゃないことは確かです。とはいえ、人には生きる意味や喜びを見出す場所が必要であることは間違いない。多くのひとにとってこの学校がそういう場所になっていれば嬉しい。今の私はそう思います。

2024年2月19日 【昆虫食の未来】

今日の昼礼はいつもより少し緊張しています。それは先週、1年生のスピーチコンテストで素晴らしいスピーチをいくつも聞いたためです。私の場合、ここでスピーチするための予選は通過していないのですが、また全てのスピーチの内容がすべての皆さんにしっかり記憶されるというわけにはいきませんが、いつも一生懸命考えて準備して話しています。

さて、二週間ほど前に長野県松本市の大学を訪問しました。夕飯を食べようということになり、せっかくだから地元らしい料理のあるお店に行くことにしました。行ったお店は馬肉料理が名物のようでした。長野県は昔から馬肉をよく食べることで知られていますね。そこには馬肉のほかに鹿肉、猪の肉もありました。熊肉や兎肉もあるようでした。メニューを見る限りでは、つまり注文しなかったのですが、馬肉と鹿肉を使った「馬鹿鍋」(ばかなべ)という料理もあるようでした。そんなバカな…

単に松本で夕飯に馬肉を食べたという話がしたいのではありません。長野県は歴史的に食の多様性の度合いが高いようです。2年生の皆さんは夏のスタディツアーの一環で長野県の「クリケットファーム」というところへ行きました。そこはコオロギを養殖して育て、動物性タンパク源として活用していこうというベンチャー企業でした。養殖したコオロギをそのままお寿司をつまむようにつまんで食べるという話ではありません。動物性タンパク質を含むパウダーにしていろいろな食品に加工していくというものでしたね。つい先日、そのクリケットファームが破産、倒産したというニュースをみました。詳しい事情はわかりませんが、要するに現状では経営としてはうまくいかなかったということでしょう。

日本国内でもクリケットファームはわりと知られていましたし、国際的には昆虫食は効率性の高い動物性タンパク源としての可能性がとても注目されている主題と言ってよいものです。昆虫食と言うと、どうしても昆虫そのものを手づかみで食べるような絵をイメージしがちですが全然違います。興味を持った人は是非、昆虫食について、またはこれからの世界の食糧事情について調べてみてください。今日の私の話は以上です。

2024年1月29日 【自由とは何か?】

みなさんも知っている通り、私は本校の校長ですが大学の教員を兼ねています。つい先日、大学教員の目から見て興味深いニュースがありましたので、今日はそれについて話したいと思います。

そのニュースは、「大学の授業中、学生が鍋を食べる 許可した教授が明かす「自由」をめぐる深い理由」というものです。「鍋を食べる」と言ってももちろん鍋そのものを食べてしまって驚いたという話ではなく、鍋の中身の料理を食べるという話です。

次のように報道されています。

「投稿したのは、ポピュラー音楽研究者で同大学教授の増田聡さん。以前から『自分の授業では教室で鍋をやってもいい」と許可しているという。今回の学生の行動について「わたしは大学とはこういう場所であるべきだと思ってます」との見解を示した。
 投稿に対しては、『素晴らしい取り組み』などと称賛する声が上がる一方、『これで授業が成立するはずがない』などと批判する声も上がった。」
「なぜ授業中の鍋を許可しているのか。増田さんは23年12月中旬、「他の受講生に迷惑をかける行為は禁止ですが、『迷惑をかけなければ何をやってもいいよ』と言っています。『授業を途中退出したり、立ち上がって背伸びをしたり、迷惑をかけなければ授業中に鍋をやってもいいよ』とも話しています」と取材に説明する。」
「『大学で授業を受ける態度は、居眠りを禁止されるような高校までの学び方とは違い、個々の学生が自発的に考えるべきであって、何が他人に迷惑をかけるのかということも自分で考えなければいけません。仮にそういうことが起こったら、その場で学生同士で話し合えばいいじゃないかと言っています』。」
「「『自由というのは 0%か100%ではなく、常に具体的な場において、『これぐらいの範囲や程度なら良いけどそれを上回るとダメだ』ということを測りながら、見えないルールや周りの人との交渉によって、具体的に可能な自由を行使していくというプロセスが1番大事だと思います』。」
「『大学という場は、単に教師が言うことを学習するだけの場ではなく、色んな試行錯誤を自律的に行い、『ここまでの範囲であれば自分の能力や周囲の人との共同作業で可能だ』と理解していけるような、自由の具体的なあり方を測れる空間なのではないかなと考えています』。」

皆さんはどう思いますか? 私は、一人の大学教員としては、大学が自由な学びの場であり自由の可能性を具体的に考えるプロセスが大事だという点は共感しますが、だからといって講義中の鍋の話にはまったく共感できません。自由はこういう風に試したり使ったりするものではないと思います。

皆さんが学んでいるこの附属世田谷中学校は、とても自由な学校だと言われることがあります。(これについては以前の昼礼で話したことがあります。2022年11月21日のところを見てください。)普通の授業中に鍋をやろうとする人はいないと思いますが、中学校に置き換えるとどういう問いになるでしょうか。自由って何なのか、大学での学びって何なのか、友達や家の方とも是非話し合ってみてください。

2024年1月22日 【朝日新聞1月20日付け朝刊、インタビュー記事】

東京都内で自宅で朝日新聞を購読している人は気づいたかもしれませんが、一昨日、1月20日の朝刊の【地域総合】面に私の本校校長としてのインタビュー記事を掲載していただきました。「楽しくなるまで よくばりに」という見出しになっています。

(昼礼では記事そのものを読みましたが、ここでは全文は割愛します。以下内容の要点を箇条書きに。
記事へのリンクは https://www.asahi.com/articles/ASS1Q5HFYRDGOXIE04Z.html?iref=pc_ss_date_article ただし一部有料記事になっていると思います。)

・偏差値のランキングの並びをみて学校を選ぶのは、あまり意味がない。
・本校は先取り的学習も受験のために特化した授業もないし、建物も古く制服も普通。
・教員は授業を大切にして生徒が一生懸命に学び、運動会も芸術発表会も頑張る学校。
・私自身はドイツと日本の教育を研究する大学教授でもあるが、ドイツには競争的な入試はないけれど子どもたちはしっかり学ぶ。日本は試験のための勉強に偏りすぎていないか、と危惧する。
・現実には受験はあるから、行きたい学校があって入試があるなら全力で取り組んでほしい、しかし進学した学校で人生が決まるなどということはないことも知っておいてほしい。
・受験に関係ない勉強、苦手な分野も学んでいくと楽しくなることが多いもの。楽しくなるところまで、まずは頑張ってみてほしい。

どうでしょうか? この記事は、中学校受験を考えている小学生や保護者の方向けの企画ですが、いま実際にこの学校で学んでいる皆さんはどう感じますか? 以上の内容は、昼礼でもしばしば触れてきていることだと思います。朝日新聞をとっている人は家で保護者の方と一緒に読んで考えてみてください。

2024年1月9日 【3学期始業式】

新しい一年が始まりました。いつもなら明けましておめでとうと元気に言うところですが、今年はそう言いにくい。そうです、1月1日に能登半島でかなり大きな地震があり、被害が出ています。2日には羽田空港で着陸してきた旅客機が海上保安庁の飛行機と衝突する事故がありました。ニュースの映像では決して小さくない爆発が映り、最終的に旅客機はほぼ全焼しました。

例年、2学期の始業式では防災への備えについてお話をすることにしています。皆さんにも、たとえば学校に来ている時に大きな災害があったらどうやって家族と会うのか、自宅へ集まることを目指すのか、学校にとどまって家族に探しに来てもらうようにするのかといったことを話し合ってみてはどうだろうか、という話をしました。今日も家に帰ったら早速に、いざ大地震があって連絡が取れない状況になったらどうするか、保護者の方と話してみてください。飛行機事故に戻ると、海上保安庁機では亡くなった方がいますが、旅客機からは全員が無事脱出できたことは不幸中の幸いでした。緊迫した局面でも落ち着いて行動できるように準備するというのは簡単ではありません。実際そういう場面になってみないと本当のところはわからないでしょう。そうであっても、皆さんにはこう望みたいと思います。電車の中や出かけた先々で、もし今ここで災害が起きたらどうしたらいいだろう?と、時々でよいので考えてみる。災害は時と場所を選んではくれませんから、せめて頭の中での備えを忘れないでください。

さて、今日は1月9日です。あと2ヶ月後には卒業式が予定されています。3年生はひと足早く、この学校から旅立っていきます。その他の皆さんも2ヶ月ちょっとです。1年生はこの附属世田谷中での1年間をしっかり振り返ってほしいし、2年生はこの学校で過ごすあと1年間をしっかり展望してもらいたいと思います。


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